図1

近代以前に憧れる近代的シコウ性を持った現代人

導入として,先月,我が大学に来校された劇作家・平田オリザの著書から。

平田オリザ『演劇入門』より(一部抜粋)
 テーマがあり、テーマを伝えたいという意志があり、それを世界や人間に投影し、観客がそのテーマを受けとるというのが、近代芸術の基本構造である。
 なぜこれが近代に特徴的なことなのかは、近代以前の、まだ宗教儀式と芸術のあいだに明瞭な区別がなかった時代と、近代以降を比べてみれば明瞭である。近代以前の共同体のなかには常に「五穀豊穣」「家内安全」といったテーマがあった。しかし、それらは伝えるべき理念というよりは、共同体のなかで定期的に確認しあうべき事柄であっただろう。作者の個人的なテーマや思想を、芸術を通じて多数のものに伝えていく行為は、まさに近代芸術に特徴的な行為である。

 「伝えたいことがある」近代芸術に対して、現代芸術、現代演劇のいちばんの特徴は、この「伝えたいこと」=テーマが、なくなってしまった点だと私は考えている。テーマがなくなったというのには、基本的に二つの側面がある。
 まず一つは、それが本当になくなってしまったということ。(中略)もはや、大きな物語、大きなイデオロギーを提示すること自体が、意味をなさない時代になっている。
 もう一つの側面は、芸術の社会的役割の変化という点が挙げられるだろう。創り手の側からすれば、狭い意味での現実社会(政治や経済のしくみ)を変革するような役割は政治やマスメディアや大学といった、どこか他のところでやってくれよということだ。
 単純な主義主張を伝えることは、もはや芸術の仕事ではない。

続けて劇作家・平田オリザは表現の欲求について,「伝えたいことなど何もない。でも表現したいことは山ほどあるのだ。私が知覚している世界を、ありのままに記述したい。私の欲求は、そこにあり、それ以外にない」と述べている。

テーマ,イデオロギーのあった近代から,それらを失った現代。
平田オリザの言うことが現代芸術の全てに当てはまるとは思わないが、近代、それ以前に対して、現代における芸術にその傾向があることは確かだろう。ここには思考を及ぼす余地がある。

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年末に神保町シアターでやっていたバブリー映画特集にて1989年の邦画『君は僕をスキになる』を観た。「今」の私にとって,そこに映っていたバブリーなドラマはある意味でとても新鮮だった。

バブル期を経験していない私は当時を知らない。ベタな恋愛邦画もほとんど観たことがなかった。恋愛,ファッション,生活観。当時はあれが本当に本気だったのだろうか。あれが当時の象徴的なポップなのだろうか。それを知るよしは今見ている現代にしかない。その感覚だけが異常に残った。

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生活に溶け込みすぎて芸術とも呼べないモノコトに憧れる。
意識的か無意識的か,それすらわからない。
「美しい」という言葉も上らないくらいの何かしら。

今芸術とされるものは近代以前の江戸では生活の中にたくさん潜んでいたのではないかと思う。色里での「粋」や歌舞伎の「通」なども含めて,枠組みの中での理解から示されるその態度が評価されていた。(いわゆるムラ社会)

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近頃キーワードとしているのは「意識」「無意識」「粋(いき・すい)」「感覚」「隠喩」「象徴」「ステマ」。
現代,近代,それ以前の時代に潜むそれらを紐解き,再構成していきたい。

“繋がるべき点が生きてる間中いっぱいに蓄積されていく。自分の分母が増えていく感覚。それが線になると体から消えていく感じがする。スッとする”

それら点と点を結び,織りなした線を認めたとき,そこにある面はどのような模様を残しているか。粗雑で乱雑なものかもしれないけれど,試行の末,生まれた調和や秩序は突然に,「美しい」という言葉も上らないくらいの何かしらを残しているのかもしれない。(好きな人の言葉を借りて)

(記:2018.1.9 年始として A・K)


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