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風について、窓について

昨日から風について考えていた。一昨日の夜から早朝にかけて、風が非常に強かったから。

風は、それを受けるモノがいなければ風の認識を持たない。常に対象物がいる。対象物が「風が強い」と感じるだけ。風自体はその強さを知らない。

風はしゃべらない。それを受けたモノがその風の強さを語るだけ。風の強さを語った瞬間に、風はもうそこにはいないのだ。

眠れぬ夜、風吹きすさぶ音を聴きながらそんなことを考えていた。そして、早朝5時、キングクリムゾンの『I talk to the wind(風に語りて)』を聴いた。

風は自分の流れを感じているのだろうか。あ、何かに当たったかもな、くらいの感覚はあるのだろうか。「風に乗る」のと「風になる」のでは意味が大きく変わってくる。自分自身の流れを感じることができたら、それは風になるということなのだろうか。誰でも風になることはできるのだろうか。

中国語の風(フウ)。風の元になった漢字は「鳳」だという。そこに爬虫類(龍)を表す「虫」が入り、「風」となった。風は龍の姿をした神が起こすとされていた。

美術館で、龍はよく虎と対に描かれる。私は昔から龍の絵が好きだった。風、龍は空行く自分の姿を、流れを感じていたのだろうか。

昼前、風の気配を感じて目が覚めた。窓から穏やかな風が吹いていた。

窓。window。風(wind)は窓(window)からやってくる。

窓とは穴の先にある心のこと、もしくは、穴の中に入ってしまった心のこと。漢字がそう伝えているな…と思いながらカーテンを開けた。風は外から部屋の中へ、つまりは心の中へと入ってきた。

内と外をつなぐ、それが窓だ。穴はどんな形をしているか。心はどのようであるか。窓はその場、その人に合った形であるのが一番いい。最近は画一的な窓ばかり建築されているけど。

自分自身を建築する。そこにある窓は時に変形していくのかもしれない。

自分自身が風だ!と感じられるなら、そこには窓があり、心があるのだと思う。でも、本当の風はきっと「自分が風だ」という認識を持たない。

風は常に対象物の心に触れて、去っていくだけ。きっと、自分が通っていった穴について考えることなどしないのだろうな。

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