18年間育った群馬の話
小・中学生時代
前回の記事にも添付した「くらしごと」さんの記事でも取り上げていただいたように、わたしはもともと北海道の人間ではない。
1998年2月3日に群馬県群馬郡群馬町(現在は合併して高崎市)で生まれた。
高崎市は人口でいうと36万8千人ほどで、旭川市より4万人ほど多いまちである。
そして他ではなかなか聞かない「都馬」という名前は、京都出身の母親と群馬出身の父親に由来する。この由来のおかげで名前を一発で覚えてもらえるのがうれしい。
小学校・中学校では前に出ることが好きで、生徒会長などもやっていた。
人前に立って話したりすることが好きなのだったと思う。
野球部では副キャプテンに自らなるなど、いまとなってはかけらもないリーダーシップを発揮していたみたいだ。
当時は「歴史」や「公民」などの社会系の科目が大好きで、授業では常に1番に答えようとしていた。
ただ英語や数学などの興味が全く持てない科目もあり、今振り返ると「なんでもっとちゃんとやっておかなかったんだ!!」とタイムマシンを発明して、あの時の自分を叱ってやりたい。
「25歳になってお前は苦労するぞ」と。
高校時代の過密スケジュール
それがどういうわけか高校で急に人前に出るのが極端に苦手になり、緊張しいになった。なぜだろう。理由はわからない。
ただ、通った高校が男子高だったこともあり、ぶっ飛んだ学校行事などそれなりに楽しい青春は過ごしたつもりだ。
3年間で同世代の異性と話すチャンスが全くなかったことを除けば。
(この環境の影響もあってか、いまも教育の事業などで女子高校生と話すのは緊張する…。)
200人いる同級生がほぼ100%4年制大学に進学する高校だったためか、とにかく勉強をしてた気がする。
朝6時には家を自転車で出発し、6時25分の電車に乗る。
そしてまた自転車に乗って7時に学校到着。
そこから自習室で授業が始まる8時半まで演習問題を解く。
一通りの授業を受けたあとで部活をした後、そのまま塾へ直行し22時まで講座を受けた。
そこから終電に乗り、家に着くのは23時ごろ。
こんな生活をずっと続けていた。
今考えると若さ以外の何物でもない。
その当時は日常過ぎてなんにも考えていなかったが、この生活スタイルに合わせ、朝ごはんや晩ごはん、さらにはお弁当を作ってくれていた母親、雨の日に送り迎えをしてくれた父親には本当に頭が上がらない。
当時は伝えられなかったけれど、本当にありがとう。
今でこそ高校で地域に関する教育や、地域の大人と関わる機会が全国各地で増えているが、自分が生徒だった時のことを振り返ると、知っている大人は先生と家族だけといった感じだった。
そんな状況だからこそ「地元には何も面白いことがない」「この街は面白くない」「この街にいて楽しいの?」と心のどこかで感じていた。
ただ中学生のころから持ち続けていた「社会の教員になりたい」という夢にむけて、高校卒業後は教育系の大学を志した。
しかしセンター試験で数学や英語が想定以上の大ゴケになってしまい、第一志望だった大学は不合格となり、併願していた京都の大学に通うことになる…。
振り返りながら文章を書いているとつくづく親不孝な息子だと思う…。
改めて、ごめんなさい。
次回のnote
次回は京都での大学生活についてまとめていきたい。
北海道に来るきっかけがこの京都での大学時代に生まれるので、そこらへんも書き残していきたい。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?