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#1293 お艶はガバッと打ち伏して泣き沈む

それでは今日も尾崎紅葉の『三人妻』を読んでいきたいと思います。

過ぎたことは今更嘆いてもかえらない。これも定まる因縁と諦めて、せめてものこの世の名残と余五郎のお姿を拝めれば自らの慰めになりましょう。生前にお目見え叶わなかったのは無念ですが、このたびの藤崎様のご尽力を不足がましくするのはお志を無にすること、と轟が言うと、藤崎は言葉を和らげて、たとえ病中に一度もお見舞いしなかったとて、それには事情あって、余五郎は草葉の陰から涙を流し、お艶の行く末を守っているだろう、と言います。罪なき者を罪に落として、不義の栄利を計る者は長く栄える例なし。何事も轟と藤崎に任せたまえ。悔しいも悲しいも一時のご辛抱、気を丈夫にして大手を振ってお奥へ!お艶は応接室を出て、藤崎のあとをちからなげに余之助を抱えて奥に入ると、奥方のお麻、娘の末子、紅梅を始めとして腰元十余人、重役ニ十三人が余五郎を囲んで、忍び音に語らっています。

藤崎は麻子の前に進みて、小声に何やら言ふを、麻子は聴きながら遥[ハルカ]に控へたるお艶の方[カタ]を見遣[ミヤ]れば、慇懃[インギン]に稽首[ヌカヅク]を纔[ワズカ]に目礼[モクレイ]して、其後[ソノノチ]はまた見向かず。霎時[シバラク]物語[モノガタリ]ありて藤崎は座を立ち、お艶の身近く来[キタ]りて、忍びやかにいふやうは、此[コノ]場に長居[ナガイ]は無用なれど、殿様に名残の一目[ヒトメ]は枉[マ]げて允[ユル]さむとのおほせなれば、今日の処は其[ソレ]にて辛抱して還[カエ]りたまへ。此方[コノホウ]も謂ひたき事は数あれど、霊前なれば遠慮して何事も胸に納めたり。我等に委[マカ]せられたる御身[オンミ]ならば、兎も角も此[コノ]場はおとなしう、我[ワガ]言葉に従はれよとあれば、何事も御意[ギョイ]に背くまじければ、何分[ナニブン]好様[ヨシナ]に、と憎からぬ挨拶。ようぞ聞分[キキワ]けて下された。殿様も嘸[サゾ]やお待兼[マチカネ]、早くお側[ソバ]へと謂はるゝに悲しく、泣顔[ナキガオ]を衆[ヒト]に見られじと俯[ウツム]きつゝ、余之助を掻抱[カキイダ]きて寝台[ネダイ]に近づけば、藤崎は先[マ]づ進みて、遺骸[ナキガラ]の面[オモテ]を掩[オオ]ふ白絹[シロギヌ]を取除[トリノ]けぬ。懐かしの面影や。髭髯[ヒゲ]のみは旧時[ムカシ]の儘[ママ]に、変り果てたまひたる……これが殿様かと、一目見るより堪[タ]へかねて、溢出[セキク]る涙を飲みこみ/\、東西分かぬ余之助にも、二人とは無き親御ぞや。稚心[オサナゴコロ]にも見覚えよと、謂はぬばかりに抱上げて死顔[シニガオ]に差寄[サシヨ]すれば、喜びて髯[ヒゲ]を攫[ツカ]まむとするを、抱窘[ダキスク]むれば哭[ナ]きたつるに乳房を啣[フク]ませつ、涙に眩む目に遺骸[ナキガラ]を打視[ウチナガ]めて、立ちかねたるを藤崎は目語[メマゼ]に制すれば、お艶も亦[マタ]目語[メマゼ]して猶予を頼む色なるに、心中[ココロウチ]を思ひやれば然[サ]こそ、と藤崎も憐[アワレ]に覚ゆれど、長居[ナガイ]はいよ/\愁歎[ナゲキ]の種[タネ]と、気強[キヅヨ]く死顔[シニガオ]に絹[キヌ]打懸[ウチカ]けて、はや彼方[アナタ]へと謂へば、お艶は我破[ガバ]と打俯[ウチフシ]て泣沈[ナキシズ]むを、扶起[タスケオコ]して次間[ツギノマ]に控へたる轟と乳母とに引渡しぬ。此[コノ]座に泣かぬものは二人。

というところで、「後編その三十九」が終了します!

さっそく「後編その四十」へと移りたいのですが……

それはまた明日、近代でお会いしましょう!

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