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#043 ちょっとだけ新聞と「社会」の話

1875(明治8)年1月14日の東京日日新聞にて、福地桜痴(1841-1906)が執筆した記事に、「社会」という単語が登場します。

弁駁の論文は新聞紙上に多しと雖ども、昨日(一月十三日)日新真事誌に登録したる、文運開明昌代の幸民、安宅矯君が我新聞に記載したる本月六日の論説を批正せし論より期望を属したるはなし。吾曹[ワガトモガラ]はその全局の趣旨と全文の遺辞とを以て、此安宅君は必ず完全の教育を受け、高上なる社会[ソサイチー]に在る君子たるを卜するを得るに付き、吾曹が浅見寡識を顧みず、再び鄙意[ヒイ]を述べ、謹んで教えを請わんと欲す。唯冒頭の一節の如きは蓋し打過他的[ペルソナルアッタック]の議に係るより、吾曹は苟も世に公にするの新聞に於て、身上の実告[ペルソナルプロテスト]を成す可き自由を有せず。仮令い此自由を許さるるも、吾曹は勉強と経歴との援助を以て、漸く高上なる社会に加わらん事を祈望するに依り、昔日の粗鄙[ソヒ]なる陋習[ロウシュウ]を逐うて実告を為すを愧[ハ]じ、又之を為すに忍びず。

ここから、「社会」という単語が広まったと言われています。

上の記事は、安宅矯君が投書してきた内容に対して福地桜痴が返答している記事です。当時の新聞は、現在と違って、投書活動が盛んなメディアで、丁々発止やり合う様は、自由闊達であると同時に罵詈雑言が飛び交うようなところがありました。

今のTwitterみたいなもんですかね!w

ちなみに東京日日新聞は、現在の毎日新聞です。

明治の新聞戦争は、なかなか熾烈なものでして、明治が始まった1868年から、上の文章が登場する1875(明治8)年の間に、地方紙合わせて164紙もの新聞が創廃刊するという時代でした。現在のSNSと変わりませんね!w

政論中心で知識人を対象とした「大[オオ]新聞」と娯楽中心で一般大衆を対象とした「小[コ]新聞」に分かれており、東京日日新聞は大新聞で、しかも、政府べったりの御用新聞でしたw

上の記事が出た同じ年に、自由民権運動による政府批判の論調を弾圧するため、明治政府は「新聞紙条例、讒謗律[ザンボウリツ]」を制定します。昨日紹介した「明六社」は機関紙「明六雑誌」を発行していましたが、これをきっかけに停刊を決意します。ちなみに、この「新聞紙条例、讒謗律」が制定された前後に創刊されたのが1874(明治7)年の讀賣新聞、1876(明治9)年の中外物価新報(のちの日本経済新聞)、1879(明治12)年の朝日新聞です。

ちなみに、小新聞の讀賣新聞は、創刊号において、

此の新ぶん紙は女童のおしへにとて為になる事柄を誰にでも分るように書て出す旨趣でござります

と、極力漢字を少なくし、「でございます」という口語体の談話調で書かれています。しかし、新聞の文章が、全面的に口語体になるのは、随分と遅れて、1920年代まで待たなければなりませんでした。

福沢諭吉(1835-1901)は、『西洋事情』(1866)で、新聞をこんな風に説明しています。

新聞紙ハ会社アリテ新ラシキ事情ヲ探索シ之ヲ記シテ世間ニ布告スルモノナリ

ここでいう「会社」とは、companyではなくsocietyやassociation、つまり「社会」を指しています。なんとも、ややこしいですね!w

しかも、この頃は、まだ「漢字+カタカナ」で書かれていますね!

これに関しても、なかなかメンドーな話でして、明治以前は、アカデミックな文章といえば漢文で、その補助的な役回りとしてカタカナを使うのが当たり前でした。『学問のすゝめ』では、こうした従来の漢学を中心とした学問を非難していますが、ここら辺に関しては…

また明日、近代でお会いしましょう!


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