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#1288 隣から火事が出ようとも行かずにはゐぬわ!

それでは今日も尾崎紅葉の『三人妻』を読んでいきたいと思います。

お艶と夜更けまで語った轟夫婦は、床に就いても、お艶の身が案じられて眠られぬまま、紅梅の化けの皮を引き剝く手段を談合します。轟は翌日、いつものように第二商社に出勤しますが、余五郎の病状がこの二日で悪化し、昨夜は吐血し、いよいよ危篤だと噂する者もいます。轟は胆を冷やして、ともかく存命中にお艶に看病させ、心残りがないようにさせたいと思い、三時の退社まで落ち着きません。轟は縋るならこの人しかいないと、第三商社の支配人である藤崎を訪ねますが、余五郎の命が迫っているということで、昨日から本家へ行ったまま帰ってこないと言われます。あとを追って本家を訪ねると、今朝から用があって出掛けたまま帰ってこないと言われます。

唉[アア]お艶様の運の尽[ツキ]。我も頼まれ効[ガイ]無し、と足摺[アシズリ]して口惜[クチオシ]がりしが、まだ見放すべき時にあらねば、と弱る心を奮起[トリナオ]して、何時頃[イツゴロ]お帰りかと問へば、其[ソレ]から其[ソレ]へ廻[マワ]らる〻事なれば、其程[ソノホド]は測り難しとあるに是非無く、龍鐘[シオシオ]門を出[イ]でゝふと思出[オモイダ]し、引返[ヒキカエ]して、殿様の御容體[ゴヨウダイ]はと聞けば、御快方[オココロヨキホウ]にはあらざれど、其後[ソノノチ]格別変[カワ]らせらる〻処も無ければとは、何より重畳[チョウジョウ]なれど、商社にての噂と藤崎の家にて聞きたる話とは、余り相違[ソウイ]為過[シス]ぎて信[マコト]しからず。取次のものなどは何[ナニ]謂ふか知れたものにはあらず。大方[オオカタ]さう言へと吩咐[イイツ]けられたる通りを喋るなるべし。
藤崎様の帰られなば、此者[コノモノ]が火急[カキュウ]の用事ありて、お訪ね申したとお伝へ下さるやうにと、名刺を渡して帰来[カエリキタ]れば、正午後[ヒルスギ]からお艶は詰懸[ツメカ]けて、様子[ヨウス]什麼[イカニ]と待ちに待ちたる処なるに、拙[マズ]い話を聴かせかねて、明日は吉左右[キッソウ]あるやう、首尾好[ヨ]く運びを着けたればと、藤崎に会[オ]うて承諾[ノミコ]ませたらむやうに物語れば、お艶は歓[ヨロコ]ぶこと限り無く、手を合はさぬばかりに礼を言はれて、轟は冷たき汗を掻きながら擬元気[ツケゲンキ]をして、もう御安心でござりまするなどゝ、嬉しがらせて帰[カエ]せし後[ノチ]、改めて内儀に様子を問はれ、遽[ニワカ]に凋[シオ]れかへりて不間[ブマ]の始末を白状し、御前[ゴゼン]の難しき噂を語れば、内儀は気を揉みて、さあ/\一大事。さう安閑[アンカン]としてお在[イデ]なさる処ではござりませぬ。今夜最一度[モウイチド]藤崎様をお訪ねなされて、是非ともお会ひなさらずば。えゝ其[ソレ]を他[ヒト]に習はうか。隣から火事が出やうとも行[ユ]かずにはゐぬわ。余計な世話を焼かずとも、飯の支度を早くと焦[ジ]れて、七時頃また車を飛ばして藤崎を訪れけり。

というところで、「後編その三十六」が終了します!

さっそく「後編その三十七」へと移りたいのですが……

それはまた明日、近代でお会いしましょう!

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