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#1297 いっぽう、そのころ、幸田露伴は……

紅葉が『二人比丘尼色懺悔』でメジャーデビューして『三人妻』を新聞紙上に連載するまでの間、幸田露伴は何をしていたのか……ここで、ざっくりですが、紅葉と露伴の年表をみてみたいと思います。

1878(明治11)年
紅葉・露伴 東京府立中学校の同窓生
1883(明治16)年
紅葉 東大予備門に入学
露伴 逓信省官立電信修技学校に入学
1885(明治18)年
紅葉 山田美妙らとともに「硯友社」を結成、『我楽多文庫』を発刊
露伴 電信技士として北海道余市に赴任する
1886(明治19)年
紅葉 第一高等中学校英語政治科に編入
1887(明治20)年
露伴 逍遥の『小説神髄』に啓発され、職を放棄し帰京
1888(明治21)年
紅葉 帝国大学法科大学政治科に入学。美妙が雑誌『都の花』の主筆となったことで縁を断つ
露伴 淡島寒月に連れられて依田學海を訪れ『露団々』の序文を依頼する
1889(明治22)年
紅葉 吉岡書籍店の叢書「新著百種」の第一号『二人比丘尼色懺悔』でメジャーデビュー。大学在学中ながら、読売新聞社に入社
露伴 『都の花』に『露団々』を発表しメジャーデビュー。吉岡書籍店の叢書「新著百種」の第五号で『風流佛』を発表
1890(明治23)年
紅葉・露伴 「読売新聞」紙上に紅葉『伽羅枕』と露伴『ひげ男』を同時連載する
露伴 国会新聞社に入社
1892(明治25)年
紅葉 『三人妻』を「読売新聞」に連載する
露伴 『五重塔』を新聞「国会」に連載する
1894(明治27)年
露伴 腸チフスにより生死をさまよう
1896(明治29)年
紅葉 『多情多恨』を「読売新聞」に連載する
露伴 博文館から『ひげ男』を刊行
1897(明治30)年
紅葉 『金色夜叉』を「読売新聞」に連載するが未完成
1903(明治36)年
紅葉 胃癌により死去
露伴 『天[ソラ]うつ浪』を「読売新聞」に連載するが未完成。以後、小説執筆から遠ざかる

紅葉は35歳という若さで亡くなりますが、露伴は長生きして、1947(昭和22)年に81歳で亡くなります。しかし、小説執筆に関しては、長い作家活動のなかで、その大半がデビューから『天うつ浪』までのわずか14年ほどの間に書かれたものです。つまり、小説家としての活動期間は、紅葉とさして違いがないのです。

さて……評論家の内田魯庵(1868-1929)が、1927(昭和2)年に「露伴の出世咄」と題して幸田露伴のデビュー秘話を語っていますので、それを読んでみたいと思います。

ある時、その頃金港堂の『都の花』の主筆をしていた山田美妙に会うと、開口一番「エライ人が出ましたよ!」と破顔した。
ドウいう人かと訊くと、それより数日前、突然依田学海翁を尋ねて来た書生があって、小説を作ったから序文を書いてくれといった。学海翁は硬軟兼備のその頃での大宗師であったから、門に伺候して著書の序文を請[コ]うものが引きも切らず、一々応接する遑[イトマ]あらざる面倒臭さに、ワシが序文を書いたからッて君の作は光りゃアしない、君の作が傑作ならワシの序文なぞはなくとも光ると、味も素気[ソッケ]もなく突跳[ツッパ]ねた。
すると件[クダン]の書生は、先生の序文で光彩を添えようというのじゃない、我輩の作は面白いから先生も小説が好きなら読んで見て、面白いと思ったら序文をお書きなさい、ツマラナイと思ったら竈[カマド]の下へ燻[ク]べて下さいと、言終ると共に原稿一綴を投出してサッサと帰ってしまった。
……
その日の書生は風采態度が一と癖あり気な上に、キビキビした歯切れのイイ江戸弁で率直に言放すのがタダ者ならず見えたので、イツモは十日も二十日も捨置くのを、何となく気に掛ってその晩、ドウセ物にはなるまいと内心馬鹿にしながらも二、三枚めくると、ノッケから読者を旋風に巻込むような奇想天来に有繋[サスガ]の翁も磁石に吸寄せられる鉄のように喰入って巻を釈[オ]く事が出来ず、とうとう徹宵して竟[ツイ]に読終ってしまった。
……
いよいよ済まぬ事をしたと、朝飯もソコソコに俥[クルマ]を飛ばして紹介者の淡嶋寒月を訪い、近来破天荒の大傑作であると口を極めて激賞して、この恐ろしい作者は如何[イカ]なる人物かと訊いて、初めて幸田露伴というマダ青年の秀才の初めての試みであると解った。
……
この作が『露団々』であった。

ということで、いよいよ露伴のデビュー作『露団々』を読んでみようと思うのですが……

それはまた明日、近代でお会いしましょう!

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