#639 おのれ二郎!夫なりとて君の仇!
それでは今日も山田美妙の『蝴蝶』を読んでいきたいと思います。
月が山にかかっている二十三夜、すこし前まで降り続いた五月雨、かよわい風に梢の雫も落ちてまた雨となります。貧しい草の屋が建っており、壁に矢じりを打ち付けて衣服が吊るされています。時は夜更け…ひとりの男と、ひとりの女が座っています。男は二郎春風、女は蝴蝶です。ここで二郎春風は衝撃の告白をします。自分は、平家の譜代ではなく、源氏の忍びの者である、と。蝴蝶は答えが出ません。
「ことわりなり、駭[オドロ]きたまうも。さばれ、早[ハヤ]、かくならば」……言掛[イイカ]けて二郎は有無[ウム]の挨拶を待っています。
胸は噪[サワ]いで顔は逆上[ノボ]せ、それで身は烈[ハゲ]しく顫[フル]えて蝴蝶の歯の根は合いません。わが良人[ツマ]ながら睨付[ニラミツ]けるばかりです。
「扨[サテ]は、御身[オンミ]は……あゝ二郎ぬしッ」。
如何にも無念らしく見えます。二郎も(夫婦の愛情はまだ消えません)無念らしく顔色まで変える妻の体[テイ]を眺めてはいられません。妻の方もまた左様[ソウ]です、愛情の点に於[オイ]てはまだ度[ド]は減らぬいとしい二郎、しかし怨みの点に於ては流石忍兼[シノビカ]ねるおのれ二郎。
そうか…ふたりは夫婦なんですね…。#638の「三年[ミトセ]がほどまでの契[チギ]りを持来[モテキ]つ」って、夫婦になって三年ほどっていう意味だったんですね…。ぜんぜん理解できてないまま読んでましたw
はや時も曙ちかくなると覚しく闇が暫時[シバシ]濃くなって星も光を隠しています。残酷な羽音を響かせて血に乾いた咽喉[ノド]を鳴らす梟[フクロウ]。人を嘲[アザ]けるか、冷淡に戸の隙間をすりぬけて肌膚[ハダエ]を薄淋しく嘗[ナ]める山風。其処へ立っている蝴蝶、実に花をはずかしめた美人の蝴蝶は殺気を含んだ目元を屹[キッ]と見張ったまゝ闇にも晃[キラ]めく短刀を抜離[ヌキハナ]してじっと眺めて息を一吹[ヒトフキ]。寝入っている良人[オット]二郎の顔をのぞき込みました、極めて冷[ヒヤヤ]かに。
しかし目も露を重く含んでいます。
兎角[トカク]急[セ]いて出る呼吸[イキ]を無理に弱く出しています。
がさつく蒲[ガマ]の筵[ムシロ]をば憎いながら窃[ソッ]と踏んでいます。
彳[タタズ]んでいる身は吾[ワレ]か人かのようです。
「口惜[クチオ]しや、あざむかれて。はじめより敵とだに知りだに知りつらば如何[イカ]に浅ましい煩悩は哮[タケ]るとも……さりと知らねばこの憂目[ウキメ]よ。敵、源氏、さてぞゆゝしき。今日も今日、三年[ミトセ]ごしの今日しも始めて御門[ミカド]のいます方[カタ]の得知[エシ]れし喜び、言う間[マ]もあらで、如何にぞや、源……源氏の方[カタ]に告ぎょうとは。なつかしい、いたいけの君、その君をあわれ気[ゲ]ものう、その君に憂き思いさせたいまつらんず、おのれ二郎ッ、にッくき春風ッ。そこを頼み来しゝはそも何の為ぞ。ただ女子[オナゴ]の甲斐なきを助けられて諸共[モロトモ]に安らけき君を見参らせ、この真心のせめての一筋聞上[キコエア]げてんとせしばかりなる……うたてくもなりしよ、のう。猶予せば御門の御大事[オンダイジ]、女なりとて武家の片はし、男なりとて御門の怨敵[オンテキ]、夫なりとて君の仇[アダ]﹆とても斯[カ]くても……悲し……あゝ二郎ぬし……否[イナ]、二郎……君の心の招くなり、そこの心のなすことよ。時はこよいを限るべき﹆つま殺す罪、後世[ノチノヨ]のほどだに恐ろしけれども……念ぜよ、これも君のおんため」。
「つま殺す罪」の「つま」は、「妻」ではなく「端 [ツマ]」、夫婦や恋人が互いに相手を呼ぶ称のことで、ここでは「夫殺す罪」という意味です。
ということで、この続きは…
また明日、近代でお会いしましょう!
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