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#638 われは源氏より忍び入りし者!

それでは今日も山田美妙の『蝴蝶』を読んでいきたいと思います。

月が山にかかっている二十三夜、すこし前まで降り続いた五月雨、かよわい風に梢の雫も落ちてまた雨となります。貧しい草の屋が建っており、壁に矢じりを打ち付けて衣服が吊るされています。時は夜更け…ひとりの男と、ひとりの女が座っています。

男も女も別人ではありません﹆二郎春風と蝴蝶です。浜辺で二郎と蝴蝶とが遇[ア]った後は作者が述べるにも及びません、これからの二人の会話で知れます。
身の運命と共に薄い光の燈火を見詰めているばかり、返答もせぬ蝴蝶の体に二郎は更に語気に力を入れたようです。
「君を思う志[ココロザ]しはさもあらん。されど暫時[シバシ]は身をも思いたまえ。埋木[ウモレギ]の花咲かで朽つるも一期[イチゴ]﹆時めいて暮らすも一期。あたらしや一期を落人[オチウド]と共に墓[ハカ]なく過ぐさんは」。
膝を進めて声を潜め、
「宿世[スクセ]いかなる縁[エニシ]なりけん、君と仮初[カリソメ]の浜辺の物語りは斯[カ]くも三年[ミトセ]がほどまでの契[チギ]りを持来[モテキ]つ﹆君の情[ナサケ]のこまやかなる、吾[ワレ]もなどて仇[アダ]にせん。かく言うも君を憐れみ思えばなり。如何[イカ]に末長う吾を憐みたまわずや。末長うあわれみ玉[タマ]いなば……のう、答えたまえ、など泣いたまう」。
やさしく言われるだけ胸ぐるしく、
「しか宣[ノタマ]わすから猶[ナオ]ぞもの憂き。君のやさしき御[オ]ンなさけの程は言うまでも非ず、ただ酌知[クミシ]らせ玉わずや、如何にせん、やや知れぬる御門[ミカド]のおンありかを源氏に告げんとは……のう、思いまいらするだに惨[イタ]ましきを﹆扨[サテ]も養われつる平家の恵[メグミ]を思[オボ]したまわば……いかでさる正[マサ]なき事は思い止[トド]まり玉いてよ、のう。霜に臥し、薪[タキギ]に宿り、憂きを経てこゝに住むはそも何のため。御門に尽くす真心ぞ。のう、願うは涙のみ。思い止まりてたまえかし」。
して見れば御門の所在が知れたので二郎は心変りしてそれと源氏に訴えようというのでしょう。あゝ人の心の頼み難いこと……二郎は何か得意顔ですこし身を反[ソ]らせました。
「いまだ知らねば然[サ]のたまう。永く秘むべきにもあらねば打出[ウチイ]でん、聞きたまえ、のう、吾は」。
改まった言葉に蝴蝶は重い目を上げました。二郎は些[スコ]し笑[エミ]を寄せ、
「まことに吾は平家の譜代[フダイ]にあらじ。源氏より忍入[シノビイ]りし者なるを」。
「源氏より忍入りし者」、……忍び……忍びの者!
今はじめて知って、あゝ残念、無二[ムニ]の人と頼んだ者は浅ましい敵。
蝴蝶には答が出ません。

ということで、この続きは…

また明日、近代でお会いしましょう!

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