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#055 事件は現場で起きてるんだ!

上田万年(1867-1937)は、1898(明治31)年、『太陽』で「内地雑居後に於ける語学問題」を書き、次のように述べています。

一日も早く東京語を標準とし此言語を厳格なる意味にていふ国語としこれが文法を作りこれが普通辞書を編み広く全国到る所の小学校にて使用せしめ之を以て同時に読み書き話し聞きする際の唯一機関たらしめよ。

同じ年に、衆議院議長の近衛篤麿(1863-1904)が内閣総理大臣の山縣有朋(1838-1922)に宛てて

国民ヲ教育シ国民ニ使用セシムルニ此ノ錯雑粉乱不規律不統一ナル文字言語文章ヲ以テスルハ誤レルノ甚シキモノナリ
政府ハ速ニ相当組織ノ下ニ国語国字ノ改良ノ方法ヲ調査セラレタシ

という、「国字国語国文ノ改良ニ関スル件」を提出しました。

こうして、1900(明治33)年に小学令が改正され、小学校の教科に「国語」が登場するようになります。

すんごく興味深いのは、この年、坪内逍遥が、尋常小学校用と、高等小学校用の『国語読本』という民間発行の国語教科書を作っていることなんですよね!高等小学校用では、ペロー版『シンデレラ』を『おしん物語』と題して、日本を舞台に大幅なアレンジを加えた翻訳をしているんです!

1902(明治35)年には、国語調査委員会が発足し、会長には、#042で紹介した明六社の加藤弘之(1836-1916)、主事には上田万年が置かれ、「方言ヲ調査シ標準語ヲ選定スルコト」を基本方針に掲げました。「標準語」という言葉が、公文書で登場するのは、この時からで、すでに明治の世が始まって35年の年月が経っていました。

ちなみに、坪内逍遥が『小説神髄』で述べている「かなのくわい」は、1882(明治15)年に結成された「いろはくわい」「いろはぶん會」「かなのとも」の各団体が1883(明治16)年に合併したものです。

逍遥は「かなのくわい」と同じ箇所で、新聞を論じて「京阪[カミガタ]風」「東京[トウケイ]語」という言葉を使っていますが、当時から日本の言葉の統一については色々話し合われていたようで、「かなのとも」が発行していた『かなのしるべ』において、#054で紹介した三宅米吉(1860-1929)が、1884(明治17)年当時の状況を残しています。

三宅米吉によると、

1.雅言を基本とするか
2.俗言を基本とするか

さらに、2を基本とする場合

1.京都の鴨川のほとりの言葉を基にするか
2.東京の言葉を基にするか
3.日本国中の言葉を調べて、人口的に最も多くの人が用いている言葉を基にするか

東京の言葉を用いるならば、いわゆる「べらんめぇ」口調ではなく、仮に上流の言葉にするにしても、どんな人々が話している言葉にすべきかで、なかなか決まらなかったようです。

昨日紹介した、1895(明治28)年に上田万年が「教育ある東京人の話し言葉を標準語にすべき」という内容に対して、なぜ「天皇を頂点とした明治の世で、京都の言葉が推奨されなかったのか」という疑問が湧いたのですが、

1.天皇家の石高は1万〜3万で勢力的に弱小であったこと
2.政治の舞台が東京に移ったこと
3.東京の新聞が先行して、「です・ございます」の談話調口語体を使っていたこと→#043でちょっと話しています
4.留学経験のある知識人や地方出身の官僚が、武家屋敷があった山の手に集中的に住むようになったこと

だからこそ、これが何よりも重要だと思うのですが、山の手に集まった知識人たちが、地方出身の集まりだから、言葉の不都合を一番痛感しており、そこで人工的に生成された共通語を手っ取り早く標準語にした方がいいと思ったのではないか。

なんせ、事件は現場で起きてるんですからね!w

つまり、上田万年の「教育ある東京人の話し言葉を標準語」というのは、当時の国語の状況の本末が転倒した状態で話が進んだ結果だと思うのです!

というところで、「国語」と「標準語」の話は終わりにしまして、『小説神髄』に戻りたいと思うのですが…

それは、また明日、近代でお会いしましょう!

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