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#042 オランダと辞書と「社会」の話

安土桃山時代の頃は、スペインやポルトガルとの貿易によって開国維持政策がとられてました。いわゆる「南蛮貿易」ってやつですね。

その後、カトリックのキリスト教布教への警戒が強まると、プロテスタントのオランダやイギリスとの貿易へと変わっていきます。1609( 慶長14)年にはオランダの、そして1613(慶長18)年にはイギリスの商館が平戸に置かれます。いわゆる「平戸貿易」ってやつですね。

で、1623(元和9)年にイギリス商館が閉鎖し、翌1624(元和10)年にスペインとの国交が断絶し、1633(寛永10)年に鎖国令が出て、その翌年、長崎の人工島・出島の建設が始まって、1639(寛永16)年にポルトガル人の来航が禁止となると、ヨーロッパでは唯一オランダのみとの貿易を出島で継続することになります。

1700年代にもなると、日本では、西欧の学問を学ぶといったら、オランダから学ぶという環境ができあがったわけです。

1774(安永3)年には杉田玄白(1733-1817)、前野良沢(1723-1803)らがオランダの医学書『ターヘル・アナトミア』を訳して『解体新書』を刊行し、1788(天明8)年には大槻玄沢(1757-1827)が蘭学の入門書『蘭学階梯』を刊行し、そして、フランソワ・ハルマの『蘭仏辞書』をもとにして、1796(寛政8)年に日本最初の蘭和辞典が稲村三伯(1758-1811)、宇田川玄随(1756-1798)らによって編纂され、1798(寛政10)年『ハルマ和解』として刊行されました。

この『ハルマ和解』では、オランダ語の「社会」に当たる単語「genootschap(ヘノートスハップ)」を「交(マジワ)ル・集(アツマ)ル」と訳しています。

それから100年、いわゆる「society」という単語は、「朋友・会衆・侶伴・交り・一致・寄合・集会・仲間・つき合・組合・懇(ネンゴロ)」など、様々な言葉で訳されましたが、そもそもヨーロッパの「目に見えない人間の組織的共同的文化的営み」を、現地の生活を実感せずに訳すというのですから、大変だったに違いありませんよね!w

1862(文久2)年、榎本武揚(1836-1908)らとオランダに留学した西周(1829-1897)は、荻生徂徠(1666-1728)の『弁道』からヒントを得て、「society」を「相生養之道」と訳し、1861(文久元)年、文久遣欧使節団としてオランダなどに留学した福沢諭吉(1835-1901)は、「人間[ジンカン]交際」と訳しています。

この西周、福沢諭吉が、中村正直(1832-1891)や森有礼(1847-1889)らと、1873(明治6)年に、「society」を具体的に体現しようと結成したのが、日本初の学術団体「明六社」です。これがのちの「日本学士院」へと繋がります。

それから2年後の1875(明治8)年1月14日、長崎生まれで、福沢諭吉とともに文久遣欧使節団としてオランダなどに留学して、日報社に入社した福地桜痴(1841-1906)が、東京日日新聞の論説記事で、「社会」という単語を使うのですが…

それは、また明日、近代でお会いしましょう!


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