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#1290 車は綱引きに後押しつけて空を飛ばす

それでは今日も尾崎紅葉の『三人妻』を読んでいきたいと思います。

轟が本家に近づくと、本家の方角目指して走る馬車や人力車の数が夥しく、もしやと胸がさわぎます。問うまでも無し……不幸のこと……ひょろひょろと玄関へ走り込めば、客は群がり、取次はうろたえ、受付は混雑……応接室の前まで入り込み、使用人たちを引き留め取次を頼みますが、みな血眼になって聞く耳を持ちません。日暮れに余五郎が息を引き取ったことだけはたしかに聞き、思っていたことながら今更ドッキリして夢見る心地です。躍り立つ胸を鎮め、二時間後、ようやく藤崎を呼び出して、お艶のことを手短に語ろうとしますが、語り終わる前に人に連れていかれ、その後、二度呼んでも出て来ません。

時の経つほど玄関は群集[クンジュ]して、応接室には椅子尽[ツ]き、五人の受附[ウケツケ]皆[ミナ]逆上して、後[ノチ]には挨拶も不分明[シドロ]になりぬる有様。
奥の騒動[サワギ]は嘸[サゾ]かしと想へば、藤崎の隙[ヒマ]無きも道理[コトワリ]とは識[シ]れど、此方[コナタ]も是非頼む事を頼[タノ]までは、帰られぬ身と辛抱強く、奥へ行[ユ]く人毎[ヒトゴト]に取次を頼みて、十二時頃にまた藤崎を喚出[ヨビイダ]し、か〻る場合なれば冗[クド]き事は畧[リャク]して、否[イヤ]でも応[オウ]でも引承[ヒキウ]けて貰はねばならぬといふは、お艶様をお枕頭[マクラモト]までお通し申さむことなり。
御迷惑でも爰[ココ]は諾[ウン]と呑込[ノミコ]むで下[クダ]さらずば、私[ワシ]の一分[イチブン]が棄[ス]たる。以来は如何[イカ]なる事[コト]起[オコ]りて、轟が首を縊[クク]らむまでも、構へて頼みの願ひのと、御迷惑は持込むまじければ、之を一生の頼まれ仕舞[ジマイ]と諦めて、引承[ヒキウケ]てくれと思入[オモイイ]りたる気色[ケシキ]に、外[ホカ]ならぬ折からなれば、いかにともしてと聞く轟は雀躍[コオドリ]して、これから直[スグ]に御本人を御同道[ゴドウドウ]申せば、今宵のやうに待たされては、お艶様が御迷惑なさるれば、お喚[ヨ]び申したら可成[ナルベク]直[スグ]に此[コレ]までお出[イデ]下さるやうにと、聢[シカ]と請合[ウケア]はして深川へ飛行[トビユ]けば、お艶は約束通り午後[ヒルスギ]から、轟方[カタ]へ出向[デム]きて久しく待ちたりしが、余り音信[タヨリ]の晩[オソ]さに十時頃帰りて、其[ソノ]沙汰[サタ]聞かぬ間は夜明[ヨアケ]までも寐[ネ]ぬ意[ココロ]。待たれたる効[カイ]あり。此[コレ]より直[スグ]に御本家へと、事情[ワケ]も話[ハナ]さで轟の急立[セキタ]つるを、様子はと訊[タズ]ぬれば、それは後[アト]でも解ること〻、無性[ムショウ]に支度を急がせられ、お艶は何が何やら一向解らねど、御前[ゴゼン]に会はる〻事と心嬉しく、乳母を起[オコ]して、余之助を懐[ダ]かせ、轟の注文のま〻車は綱引[ツナヒキ]に後推[アトオシ]つけて、空[クウ]を飛ばして日本橋まで、着きたる頃は午前二時なり。

というところで、「後編その三十七」が終了します!

さっそく「後編その三十八」へと移りたいのですが……

それはまた明日、近代でお会いしましょう!

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