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#1326 なぜ恋しいのだろう……ただ恋しい……

それでは今日も幸田露伴の『露団々[ツユダンダン]』を読んでいきたいと思います。

真珠取りは海に苦しみ、金掘りは山に疲れると言う老人も、孫を喜ばすために雷おこしを購入し、政治家うるさし、軍人危うしと言う作家も、文を売るために万巻の書を噛み砕いて吐き出します。しんじあはおとなしい男、激しい恋はしないけれども、煩悩の迷いの雲に覆われて、弦の切れた弓の如く甲斐なく孤独の世を過ごします。しかし、岩から洩れる水の色は澄んで見えないように、しんじあの心も……

あゝあのるびな令嬢……あの美しい気高い愛らしき令嬢、……あのやさしく正しく趣[オモムキ]のある令嬢、……美人も貞女も珍らしくはないが、あゝ趣のあるものは少[スクナ]い。あゝそれ四年許[バカ]り以前であつた、……あのひろい庭の薔薇園[ショウビエン]の花に水を濺[ソソ]いで居た折に『貴嬢[アナタ]は何故[ナゼ]花をお愛しなさる。』と問ふた時はあの涼しい空色の眼をまろくして驚きながら、『何故といふ事もないのですが、何だか花は天上の音楽の凍つた者のやうに思はれるではありませんか。』と答へた美しさ。丁度其の時、心よい風が吹撓[フキタワ]めて、薔薇[ショウビ]の花もうなづく様に見えたが、其のゆかしい香[ニオイ]は花から出たのではなくて、あの……あの令嬢の唇からこぼれたやうであつた。あゝ慕はしい。戀[コイ]しいるびな嬢、……『何故[ナゼ]戀[コイ]しいのだらう。』『何故といふ事もないが、唯[タ]だ戀[コイ]しい。』あゝ此の答[コタエ]は、自分ながら妙ではないが、たヾ戀[コイ]しいのが戀[コイ]の本體[ホンタイ]には相違ない。あの可愛らしい顔付[カオツキ]は玉とも瑠璃とも譬へやうがない。瑠璃の手箱の中[ウチ]に入[イ]つて居るものは大抵眞珠か金剛石[コンゴウセキ]だが、あの令嬢の胸の中には何があるだらう。平和親切優美慈愛温順妙慧[ミョウケイ]などいふ貴[タット]い寶[タカラ]があるに相違ない。妙慧だから此方[コナタ]の心も察しては居やう。親切で、温順で、平和優美で、そして慈愛が深ければ、こなたの思ひもあはれとは見るに相違ない、鳩さへあの様に愛されるのだもの、……然[シカ]しどうしてあの様に鳩が可愛いのであらう。ぶんせいむ君が、鳩を二十も三十も蓄[カ]つては汚くていけぬから、せめて四五羽にせよと叱つたときはまだ十三の乙女だつたからでもあらうけれども、『鳩は妾[ワタシ]の親友ですからいや/\』と泣出したさうだが、どうもやさしい、情の深い、趣のある貴女[キジョ]だ。此間[コノアイダ]も、じやくそんの妻が餘所[ヨソ]から珠數掛鳩[ジュズカケバト]をもらつたと自慢話しを仕[シ]たら、直[スグ]にねだり取られてしまつたさうだが、其[ソノ]鳩が逃[ニゲ]てじやくそんの方に帰つたのをまた取り返した其時[ソノトキ]は、大層悦[ヨロコ]んでじやくそんの妻が眞珠の腕輪をやつたさうだがどうしてあんなに可愛いだらうか、……いつそ此のしんじあの身體[カラダ]が鳩になればよい。」

数珠掛鳩は、飼養品種の鳩のことです。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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