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#1262 ちょっとだけ蓄音機の話

尾崎紅葉の『三人妻』には、こんな一文があります。

聞いて極楽、其[ソノ]身の地獄、我の気も知らでそんな事をとは、聞かせたき人あり、こゝに蓄音機の無きこそ恨[ウラミ]なれ。

『三人妻』が連載されたのは1892(明治25)年ですが、その15年前の1877(明治10)年12月、トーマス・エジソン(1847-1931)が音による空気の振動を針先に伝え、回転する円筒軸に巻いた錫箔に刻んで録音し、この凹凸を針先で拾って再生する錫箔式フォノグラフの実験に成功します。ちなみにこの実験の際に使用された曲は『メリーさんのひつじ』でした。

1888(明治21)年には、チャールズ・サムナー・テンター(1854-1940)やアレクサンダー・グラハム・ベル(1847-1922)らの共同研究により紙筒にワックス(蝋)を塗って、凹みを付けるのではなく彫り込むことで録音を行なうグラフォフォンシステムが開発されます。これが商業用に生産されると、エジソンはすぐに蓄音機に関する研究を再開し、全体をワックスで作った分厚い蝋管にすることで、表面を削れば何度も再利用できるように改良し、この一体成形の蝋管方式が共通の標準フォーマットとなります。

この前年の1887(明治20)年には、エミール・ベルリナー(1851-1929)が亜鉛円盤に横揺れの溝を刻む円盤式蓄音機のグラモフォンを開発します。

日本に蓄音機が上陸したのは意外と早く、エジソンの発明の翌年の1878(明治11)年9月、イギリスの工学者ジェームズ・ユーイング(1855-1935)が製作した錫箔式フォノグラフが東京大学にもたらされ、同年11月16日には、一橋にあった東京大学理学部の実験室において録音・再生の実演が行われます。

1896(明治29)年、アメリカからフレデリック・ホイットニー・ホーン(1856-1921)という男が来日します。ホーンは横浜で機械工具の輸入商社・ホーン商会を創業します。翌1897(明治30)年には横浜山下町でグラフォフォンとグラモフォンとレコードの輸入販売を始めます。

一方その頃、愛媛県宇和島出身の松本武一郎(1865-1907)という男が、浅草公園第四区瓢箪池の藤棚の下で街頭の蓄音器屋をしていました。蓄音器屋とは、有料で蓄音機の再生音を聞かせる商売のことです。このふたりが1897(明治30)頃に出会います。松本はホーンの協力を得て、1899(明治32)年に浅草並木町に「米国直輸入 大聲發音器蓄音蠟筒及付属品販賣」店を開き、翌年の1900(明治30)年、マルクス主義の社会事業家である片山潜[セン](1859-1933)と神田橋本町のガラス卸「釜屋」の横山進一郎の3人と共同事業の形で、蓄音機の輸入と平円盤(レコード)を販売する合名会社「三光堂」を設立します。

ホーンも松本の協力を得て、1907(明治37)年に蓄音機とレコードの製造会社「日米蓄音器株式会社」と、販売会社「日米蓄音器商会」を設立します。現在の川崎区港町に工場を建設すると、1909(明治42)年4月に操業を開始し、5月には国産第1号となる円盤レコードを発売します。そして翌1910(明治43)年4月、国産蓄音機第1号「ニッポノホン」全4機種が生産され、当時の平均月収である35円で販売されました。

1911(明治44)年12月、松本の三光堂は当時一世を風靡していた浪曲師・桃中軒雲右衛門[トウチュウケンクモエモン]の浪花節の忠臣蔵外伝の5曲を、三光堂の録音室で平円盤に吹き込み、原盤をドイツに送ってレコードとして輸入します。1912(明治45)2月、 雲右衛門は著作権を登録するとともに、横浜に住所を持つオランダの貿易会社ファン・ニーロップ商会で働いていた貿易商のドイツ人リチャード・ヴェルダーマンに著作権を譲渡します。同年7月30日、明治天皇が崩御すると歌舞音曲停止となり、その間に海賊版が出回ります。すると、雲右衛門のレコードの複製盤が、ホーンの日本蓄音器商会から発売されます。著作権登録者であるヴェルダーマンが裁判を起こします。これが日本で最初の著作権侵害訴訟です。

大正時代になると、日本蓄音器商会は、東洋蓄音器、帝国蓄音器商会、東京蓄音器、そして三光堂を買収します。1926(大正15)年には英国のコロムビア・レコードと契約、1927(昭和2)年には米国のコロムビア・レコードと契約し、コロムビア・レコードを発売開始。そして、1928(昭和3)年、商号を現在の「日本コロムビア株式会社」に変更します。

ということで、あらためて『三人妻』へと戻りたいのですが……

それはまた明日、近代でお会いしましょう!

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