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#1310 夜の公園で出会ったフルートを弾く少年

それでは今日も幸田露伴の『露団々[ツユダンダン]』を読んでいきたいと思います。

ぶんせいむが出した娘の婿募集の広告の不思議さは、電報や郵便でたちまち広がり、三人寄れば「君は申し込まれたか」と問い返すほどの事。新聞の売れ高は大統領選挙を書いた時より二倍三倍のよし。なかには、偽りか誠かと社説で論じる小新聞もあります。広告を載せた新聞社の門前には来客の山。社員が昨夜、ぶんせいむのもとを訪れ、申し込みの人数を尋ねると、わずか百名に過ぎないと不満気に答えます。世の人が申し込みに躊躇するのは、広告の内容の覚悟と主意、それが誠意から出たものか滑稽から出たものか断言できないからであり、そこで、ぶんせいむの性質行為を報じ、世の人が判定を下す材料にしようとします。ぶんせいむは1817年にポーツマス港の町外れの荒屋で生まれます。母は出産が原因で亡くなり、父は波止場の人足になるがどうしようもないため、隣家の老婆に託しますが、その老婆も5歳のときに亡くなります。6歳のときに小学校に入りますが、算術と体操遊戯を学ぶのみで、教師を困らせます。12歳のとき父と海岸を歩いているとき、大船が停泊しているのを見て、誰の所有かと聞くと、父はピーエー会社のものだと答えます。その右の船も左の船もピーエー会社だと答えます。同じ所有主であることを聞き、茫然として父を見ると、みすぼらしい服を着て、なにも所持していないその姿に涙ぐみ、ぶんせいむはピーエー会社の旗を睨み、拳を握り唇を嚙み、低く太き呻り声を発します。翌日、父の枕辺に「我は三艘の大船を率いて帰りくる。父よ暫く待ち給え」という手紙を残して船に乗り込みます。それから7年後、200ポンドの金とともに「我は東インド会社の機関士となりて、月に40ポンドを得ている。願わくば数年待ち給え」という手紙を父に送ります。ぶんせいむは船を150ポンドで買い取り、好結果を出し、さらに船を買い増し人を雇い、捕鯨船隊を組み、4年程経て7艘の船を所有し、ポーツマスに帰り、10年の時を超えて父と再会します。ぶんせいむは45万ドルで船舶器具一切を売却し、あらたに亜濠貿易隊なるものを組み、アジア・オーストラリア間の交易を成し利益を得ますが、33歳のときに父が亡くなり、その翌年、妻を娶ります。

氏は愈[イヨイヨ]資金の増殖するに従ひ、鉄道を敷設し、造船所、製鐵場[セイテツジョウ]を起[オコ]し、礦山[コウザン]を開掘[カイクツ]し、綿毛[メンモウ]を紡績する等、其の爲[ナ]す所[トコロ]機に投じ宜[ヨロシキ]に處[ショ]したるをもつて、益々富を重ね、五十一歳にして愛女[アイジョ]を得たり。五十六歳にして夫人に永訣[エイケツ]したれども、隆盛の運は更に衰へず、今日[コンニチ]にては、二億以上の有名なる財産家となれり。氏の人となりは剛毅果断[ゴウキカダン]にして、人未[イマ]だ氏が額上[ガクジョウ]に手を按[アン]じて沈思[チンシ]するを見ず、事を爲し業[ギョウ]を起[オコ]すに、會社組織を用ゐたることなく又[マタ]他人の忠告を聴きし事なし。故に屡々[シバシバ]莫大の損失をなせども知らざるものゝごとし。然れども畢竟[ヒッキョウ]成功の多く擧[アガ]るを見れば、亦[マタ]氏の心中[シンチュウ]必ず十分精細の思考を有するを知るに足れり。又[マタ]尤も奇なるは、學校、病院、養育院等に對[タイ]して、驚くべき金員を義捐[ギエン]すれども、宗教に関しては實に冷淡にして、其[ソノ]改宗して、ゆにてりあんとなりしも、蓋し他[タ]の宗派の儀式の煩重[ハンチョウ]なるを避けたるに外[ホカ]ならざるべし。氏は平素勤倹[キンケン]にして奢侈[シャシ]ならざれども、一時の逸興[イッキョウ]に乗じて千金を抛[ナゲウ]つは、他[タ]の富神[フシン]の爲[ナ]す能[アタ]はざる所なり。嘗[カツ]て月夜[ゲツヤ]公園を散歩せしに、一少年の綠陰[リョクイン]に坐し、フリュートを弄[ロウ]せる其[ソノ]聲[コエ]嚠喨[リュウリョウ]として妙なりしが、暫時[ザンジ]にして曲を終[オ]へしかば、氏は進[ススン]で願はくは又[マタ]一曲をと請[コ]ひしに、少年は微笑して、余[ワレ]はフリュートの音[オン]を賣[ウ]る者にあらず、と答へたり。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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