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#651 文学仲間と海を見晴らす築山に立ってみれば…

それでは今日も山田美妙の『明治文壇叢話』を読んでいきたいと思います。

美妙は、徳富蘇峰・森田思軒・朝比奈知泉の三氏から、「文学会を組織しよう」という手紙をもらい、1888年9月8日、芝公園の三緑亭へと赴きます。午後五時半、出席の第一番は依田學海、依田は時間を間違えない性格のようで、会の集まりには誰よりも早く来るみたいで…。その後、続々と、坪内逍遥や森田思軒など、総勢11人が集まります。依田氏は、こういう集まりの時には、誰よりも早く来る性格のようで、依田氏が会合にいれば、場が賑やかになるそうで…。しかも禁酒禁煙で、芸妓に冗談すら言わない性格のようです。そんな依田氏と美妙には、些細な噴き出す話があるようで…。浅草での日本演芸協会の演習での帰り道、美妙は依田氏とバッタリ会います。演劇論から小説論へと話が及び、やがて年齢の話がはじまります。自分はすでに老年であることをまわりの若い文学仲間に伝えると、坪内逍遥が「先輩には後進の先導を…」と答えます。すると、笑いながら「漢文で先導でもしましょうか」と言って、美妙の『いちご姫』の「小君」の読み方について、「しょうくん」ではなく「こきみ」と読ませた方がいいのではないかと指摘します。美妙は、「しょうくん」と読ませた根拠を學海に説明します。

話しも亦[マタ]それだけで果てました。と言ふのは話しを果てさせた人が有ッて後から小中村清矩[コナカムラキヨノリ]、鳥居忱[マコト]、関根正直[マサナオ]、森田文蔵、坪内雄蔵など及び燕枝[エンシ]、如燕[ジョエン]などの人々が逐[オ]ッて来たのです。

小中村清矩(1821-1895)は国文学者、鳥居忱(1853-1917)は作詞家、関根正直(1860-1932)は国文学者、燕枝は落語家の初代談洲楼燕枝(1838-1900)のことで、如燕は講釈師の桃川如燕(1832-1898)のことです。燕枝に関しては坪内逍遥の『当世書生気質』で、須河くんたちが門限を破って落語を見に行ったときに登場しましたね。詳しくは#083を読んでみて下さい。

それからは早銘々[ハヤメイメイ]やがてしばらくは彼一句[カノイック]是一句[コノイック]とりとまらぬ話しのみでしたが、最後に私がひとり先へ立ッて海を見晴らす築山[ツキヤマ]の上に上[ノボ]ッて坐[ソゾ]ろに後[ウシロ]をふりかへッて聞けば木立[コダチ]の間から呵々[カカ]と笑ふ依田氏の声があり/\と響きました。
おのづから気の晴れ/″\とする海の景色、茫然とながめて居るところへ例の聴き馴れた声がしました。声の持ち主は言はずと知れた依田氏、ー
「何か見えますな」言ひ/\上[ノボ]ッて来て、「あゝ海風の状[サマ]だ。少し違ッたな。」
「いえ、この離宮の様子が。旧幕の頃私が一度こゝへ来た事が有りましたが、其時[ソノトキ]は紀州家の邸[ヤシキ]で、どうも」庭の海近い方を指し、「この辺[アタリ]が何だか違ひました」。が、話は更に飛びました、ー

おそらく芝離宮のことでしょうね。大久保忠朝(1632-1712)の屋敷内の庭園楽寿園として作庭されたのが1686(貞享3)年のことで、紀州徳川家の別邸・芝御屋敷となったのが1846(弘化3)年のことです。皇室が買い上げたのは1875(明治8)年のことで、芝離宮となったのは翌年の1876(明治9)年のことで、昭和天皇の御成婚を記念し東京市に下賜され旧芝離宮恩賜庭園として開園したのが1924(大正13)年のことです。

ということで、この続きは…

また明日、近代でお会いしましょう!

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