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#083 落語を楽しむ書生たち

では今日も、坪内逍遥の『当世書生気質』を読んでいきたいと思います。

宿舎に門限ギリギリで急いで帰ろうとしていた須河くんと宮賀くん。しかし、門限内で帰ることを諦めて、ふたりは牛鍋を食べることに!途中で、任那くんが偶然合流して、そのまま帰るかと思いきや、なんと寄席でも行こうという話になって…

さる程に、任那(名は透一[トウイチ]といふ)、須河(名は悌三郎[テイザブロウ]といふ)、宮賀(匡[タダシ]といふ)の、三書生は、なにか互[タガイ]にむだ口を叩きながら、筋違[スジカイ]の方[カタ]へあと戻りして、白梅[ハクバイ]といふ寄席へはひる。
札番「いらっしゃい。」

ようやく3人のフルネームがわかりましたね!w

白梅亭は、かつての神田連雀町にありました。連雀町は関東大震災後に区画整備がなされ、1933年(昭和8)年、須田町1丁目と淡路町2丁目へ編入されました。白梅亭は逍遥もよく通っていたそうです。1657(明暦3)年のいわゆる振袖火事(明暦の大火)の影響で、幕府はこの場所に火除け地を設ける政策をとり、住民25世帯を強制移住させました。それが現在の三鷹市下連雀です。神田連雀町近辺には、白梅亭・立花亭・小柳亭の3つの寄席があったそうです。ちなみに#080で紹介した、「太田道灌」と書いて「にわか雨」と読むネタとなった「道灌」という落語の話ですが、8代目桂文楽(1892-1971)が初めて高座で演じた噺でもあり、その舞台は、この白梅亭です。見習いになった直後、寄席にあがるはずの前座が来なかったので、仕方なく代わりに出て、うろ覚えながら最後までやったというエピソードが残されています。

折しも当時は、燕枝[エンシ]、柳枝[リュウシ]などの一連にて、さしかはり入[イリ]かはりて、陸続[リクゾク]高座に登るものから、柳枝が高座にあがりし頃には、はや九時半とも思はれたり。

門限は10時なので、完全に諦めてますね!w

燕枝は初代談洲楼燕枝(1838-1900)、柳枝は燕枝の弟子である三代目春風亭柳枝(1852-1900)、師匠と弟子が同じ年に亡くなってますね。

されども此方[コナタ]の宮賀と須河は、まだぽっとでの気味失せねば、つまらぬ前座の落語をさへ、頤[アゴ]をはづして聴く方[カタ]ゆゑ、柳枝が頗る軽妙なる、その弁舌に聴とれつつ、時間の移るも知らざりしが、柳枝が得意[オハコ]の釣客告条[アトヒキコウジョウ]。
柳「さてこれからはどうなりませうか、また明晩の中入前[ナカイリマエ]に。」トむかし取つたる講釈口調。

落語は、前座・二ツ目と続き、以後は真打ばかりが出演します。途中に入る休憩を「中入り」と言います。通常は「人が入るように」という縁起をかついで「仲入り」と表記します。中入り直前の演者は「中トリ」と言い、中入り直後は「くいつき」と言って、再び高座に集中させるために勢いのある芸人が登場し、非常に難しい役回りだと言われています。その後「ひざがわり」という音曲・奇術の芸のあと、ここ一番の大物が最後の「トリ」を務めます。

名残のこして引さがれば、とたんに楽屋で声高く、「中入ッ」トぞ叫[サケビ]ける。
茶売「お茶はよろしうございますか。」
菓子売「菓子はよしかア。」
任「オイ菓子を持て来い。オイ茶も要るワ。」

すっかり楽しんでいる3人ですが、さてさて、このあと、どうなることやら…

この続きは、また明日、近代でお会いしましょう!

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