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#1320 第五回は、恋とは何かについて語るところから……

それでは今日も幸田露伴の『露団々[ツユダンダン]』を読んでいきたいと思います。

今日から「第五回」に入りますよ。それでは早速読んでいきましょう!

第五回 玉河[タマガワ]の水に溺れなをみなへし
寫[ウツ]りし影のいと美くしきも、落ちなば惜しき名こそ流れめ

盲目の天女[テンニョ]とはよくも譬[タト]へし戀[コイ]のまん中、外れぬ所の穿[ウガ]ちなり。實[ジツ]に此[コノ]情の趣きの美しくしてあはれ深く尊くして面白きは、霊香[レイコウ]薫[クン]じ蓮華[レンゲ]降る霞[カスミ]の内に、乙女の遊ぶが如くなれど、此[コノ]道の迷[マヨイ]の昏[クラ]くして危[アヤウ]く険しくおそろしきは、霧立ち籠めて苔[コケ]なめらなる桟[カケハシ]を盲者[メナシ]の辿るが如し。悲[カナシ]んで汐干[シオイ]に見えぬ沖の石とのやさしき思[オモイ]はうれしけれど、怒[イカ]つて岩に碎[クダ]くる浪なれやとのはげしき恨[ウラミ]はうとまし。夜半[ヨハ]にや君がひとり行[ユ]くらんと實體[ジッテイ]の女房の喞[カコチ]も戀[コイ]なれば、大弊[オオヌサ]の引手[ヒクテ]數多[アマタ]と嘲[アザケ]られし浮気の亭主のそゝりも戀[コイ]なり。

『伊勢物語』第四十七段「大弊[オオヌサ]」にはこんな一文があります。

むかし、男、ねむごろに、いかでと思ふ女ありけり。されどこの男を、あだなりと聞きて、つれなさのみまさりつついへる。

大幣の引く手あまたになりぬれば思へどえこそ頼まざりけれ

返し、男、

大幣と名にこそ立てれ流れてもつひによる瀬はありといふものを

昔、男が心から、どうにかして一緒になりたいと思う女がいた。この男を浮気者だと聞いていて、冷淡さばかりを募らせつつ詠んだ。あなたは神社の大幣のように引く手あまたなのですから、貴方のことは当てにできないですね。返しに男が詠んだ。大幣と評判を立てられているが、いつしか川の瀬に流れ着くのです。

大幣とは、神社の神主が祓えのときに振っている、大串に麻や木綿や紙をフサフサに巻き付けたハタキみたいなアレのことです。人々はこれを引き寄せて体にこすりつけ、身の穢れを大幣に移して、川に流します。あなたは神社の大幣のように、方々から引く手あまたでしょうから、信用できませんわ。そして男は答えます。大幣はお祓いをした後、川に流すんです。それはいずれ川の瀬に流れ着きます。それがあなたなんですよと、という会話です。

いづれ戀[コイ]とはいつはりの無き心の白絹[シラギヌ]に描く摸様の色々なれば、巧[タクミ]にして然[シカ]もいやしからずは、麗はしさも一[ヒト]しほにて錦の上に花を添ふるごとくなるべけれど、拙[ツタナ]くあしからんには玉の盃[サカズキ]の底なきにも劣らん。とはいふものゝ、粂仙[クメセン]川岸[カシ]に落ちて汚名を流し、阿難[アナン]淫肆[インシ]に入[イッ]て、流連[イツヅケ]になん/\としたさうな、とても理屈で推せぬが人情ならん。

「粂仙」は『今昔物語』巻十一に出てくる久米仙人のことです。久米は龍門寺で修行し仙人となって空へと飛び立ちますが、吉野川の川岸で着物をかきあげ洗濯している若い女性の白いふくらはぎを見て心を穢し、墜落し、ただの人となって、その女性を妻として暮らします。

「阿難」は釈迦の十大弟子のひとりで美男子だったと言われています。女難を被ることが度々あり、釈迦が在世中に悟ることができなかったのは女難が多かったためだと言われています。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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