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消防車のサイレンがきっかけで始まるご近所付き合い。近隣住民がご近所さんに昇華する瞬間を想う。『デタラメだもの』

救急車や消防車のサイレンが聞こえる。遠くのほうから聞こえはじめたサイレンの音は徐々に大きくなり、すぐ近所まで近づいたかと思うと、ピタッと止まる。

サイレン音は音楽でもエンターテインメントでもないから、リスナーの気持ちを害さぬよう、フェードアウトなどして終幕を迎えてはくれない。いつだってピタッと止まる。音が止んだ瞬間、近隣住民たちは一様に思う。「近くで何かが起こってる!」と。

外ではガヤガヤと近隣住民たちの声が聞こえる。家着のまま、サンダルまがいの履物で玄関先に飛び出す者。薄く窓を開き、覗ける限りの景色を伺いながら状況を把握しようとする者。現場付近に「私、一番に到着したのですわよ」と自慢せんばかり、後続の住民たちに状況を説明して回る者。

ともかく、あのサイレン音が止む瞬間の合図は、短距離走のスタート合図さながらである。

過去に、そんなことも言っていられないホンモノの災害を体験したことがある。二軒隣にあった市場で何らかの爆発が起こり、それが原因で天ぷら油が発火し、大火事が起こった。さすがにサイレン音がどうのこうの、短距離走のスタートがどうのこうの言ってる場合ではなかった。

ここではあくまで、「サイレンの音が聞こえたから見に来たけど、なぁ~んや、何も起こってへんやないの」と、コメディのように終始する状況の話をしたい。たまにあるでしょ。火事だと思って様子を見にきたものの、火も煙もあがっておらず、消防車と消防士の姿しか見えぬ、というシチュエーションって。

先日も例に漏れずサイレンの音。それがグングンと近づき停止するのみならず、後から後から何台ものサイレン音が響き、近づき、そして止まる。確実に近隣で何かが起こっているのは間違いない。消防車が到着していることから、おそらく火事に類する災害。

ゴシップ担当の記者のように駆け出して行くのも芸がない。ここはひとつ、薄く窓を開き、覗ける限りの景色を伺いながら状況を把握することにした。

日付が変わろうとする深夜の時間帯。さすがに家着で出るには肌寒い。それでも現場にいち早く到着しようと、薄着のままのおばちゃんが両腕で自身の身体を温めながら、サイレンの明かりがチカチカするほうへと歩を進める。

隣家の年配夫婦も「なんやなんや?」と出てきた。おっ、珍しい。三十代前半と思しき若い夫婦も、男性は水色、女性はピンク色という平和的な寝間着姿のまま、現場のほうに歩いてゆく。こういうのは年配の方々を中心として現場に向かうものと思っていたものの、その若さに新鮮さを覚える。

周囲の家の窓に目をやってみると、案の定、薄く開いた窓が散見され、そのうちのひとつから覗く視線とバッティングしてしまい狼狽。おそらく先方さんも狼狽。再び階下に目をやると、全力疾走に近いスピードで現場へと向かう婦人の姿。もはや就寝中だったにも関わらず、飛び起きてきましたよと言わんばかりの風体で駆け抜ける。

しばらくするとその婦人。現場から自宅方面へと再び走り抜けて行く。来たときと同じスピードでバタバタと音を響かせながら走り抜けて行く。現場で知り得た状況を、自宅で状況報告を待つ家族に知らせに戻ったのかもしれない。全力で現場に駆けつけ、全力で自宅に戻っているところを見ると、携帯電話は持ち合わせていないのかもしらん。

それからしばらくして、その婦人はまたしても現場へと向かう。再び同じスピードで。想像するに、現場で巻き起こる最新情報を収集しに向かったに違いない。状況は刻一刻と変わっているだろうから、婦人の行動も頷ける。

こちらとしても、窓から覗いているだけでは状況を掴めない。最終的には現場に向かってみた。結局、「サイレンの音が聞こえたから見に来たけど、なぁ~んや、何も起こってへんやないの」だった。
現場に駆けつけた者たちが、一切の慌てふためきを見せていないことから、きっとそうに違いないと思ってはいたものの、周囲からは、いくつもの「サイレンの音が聞こえたから見に来たけど、なぁ~んや、何も起こってへんやないの」が飛び交っていた。

おお。気づけばこの原稿で語りたいことに到着する前置きの段階で、原稿の半分を超過するほどにベラベラと語ってしまっているじゃないの! まるで小説の地の文さながら、ツラツラと書きなぐってしまっている……これは大いに反省せねば。

何が言いたいかっていうと、どういう理由であれ、近隣住民たちが一堂に会し、これまで喋ったことのない者同士でも、「近くでサイレン鳴ったから、ビックリして飛んできてん」「火災報知器の誤動作らしいですよ」「ほんまかいな!」「まぁ、火事じゃなくてよかったですよねぇ」といったように、自然に会話がはじまっちゃうあたり、嫌いではないのよ。むしろ好きなのよ。

近隣に住む同士とはいえ、タイミングが合わなければ顔を合わせることもないし、ましてやロックフェスさながら、同じ目的で集まることもない。出歩く際に、今日はAさんと挨拶を交わした。次の日はB夫妻。またその次の日はCさん。といったように単独で会う機会はあれど、一堂に会する機会なんてものはない。

へぇ。お向かいさんってこんな感じの老夫婦だったのかとか、たまに見かけるご主人、イカツそうな風貌の反面、めちゃくちゃ気さくで優しそうやないのとか。裏手に住む三十代前半と思しき若い夫婦、男性は水色、女性はピンク色という平和的な寝間着で仲睦まじいじゃないの、とか。人としてその距離がグッと縮まる。つまりは、近隣住民だった人たちが、ご近所さんに昇華するわけね。これ、嫌いじゃないのよ。むしろ好きなのよ。

近所付き合いが希薄になったとされる昨今、サイレン音というあまり好ましくないものがきっかけになるのはどうかとも思うが、こうしてコミュニケーションがとれるというのはいいことだ。作りすぎた煮物を分け合う仲になるにはまだ遠いかもしれないが、本当に災害が起こったときなどに、顔なじみになっていて損はない。何より、気さくに挨拶や言葉を交わせる人が増えるのはいいことだ。

こういうことって、嫌いじゃないのよ。むしろ好きなのよ。そういえば、サイレン音に頼らずとも、ご近所さんが一堂に会する場があるじゃないの、と思いつき、数年前の夏、小学校の夏休み期間中に催されるラジオ体操に参加してみた。

子供の頃は祖母から参加を促されていたため、欠かさず足を運んでいた。当時から、「へぇ、こんなおっちゃん、近所に住んでたんやぁ」などと、今と似たような感想を抱くこともあり、なかなか趣き深い催しだなと感じていた。

今やうってつけじゃないの! ラジオ体操最高じゃないの! 鼻息を荒くし、開催初日。寝過ごしてはいけないと思い、前夜から仕事などをダラダラと続け、徹夜のまま向かうことに。近隣住民がご近所さんに昇華することを想像すると、興奮で心拍数も高まる。

いざ、小学校に足を踏み入れる。その日の参加の証を残す、首からぶら下げるタイプのスタンプカードの台紙を受け取る。ん? 何かしら違和感を覚えた。ん? 何か違うぞ。思っていたのと違うぞ。

そう。ラジオ体操に参加している面々の大半が、おばあちゃんとおじいちゃんで埋まっていた。中には幼き子を連れたお父さんと思しき数名もいた。
もちろん、こちらとしては健康のために訪れたわけでもないし、子守のために参加したわけでもない。近隣住民がご近所さんになる瞬間に立ち会いたい一心なわけだ。

しかし、おばあちゃん、おじいちゃん、子守のお父さん。このいずれかに属していない者に向けられた視線、それはすなわち、「この人、不審者じゃない?」。こんな早い時間に、ええ年の男が単独でラジオ体操に乗り込んでくるなんておかしい。通報したろうかしらん?

そこまで思われていたかどうかは定かではないが、ご近所さんに昇華するどころか、不審者に成り下がってしまったことで気持ちはベキベキにへし折られた。想像に易いかもしれないが、スタンプカードの台紙に2つめの参加証印が押されることはなかった。

デタラメだもの。


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