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年をとると、あっという間に時間が過ぎるよね。という時間の相対性について深く考えてみた。『デタラメだもの』

年齢を重ねれば重ねるほど年をとるのが早くなる、なんてことはよく言われるが、実際にそう感じている自分がいる。一週間なんてあっという間に過ぎ去っていく。

子供の頃は、学校のない日曜日が待ち遠しくて仕方がなかった。その日に向けて、平日の5日間と土曜日の半日を、なんとかやり過ごしていた。日曜日までの道のりは果てしなく長く、早く過ぎろ早く過ぎろと念じてみても、遅々として進まぬ日々。

ところがどっこい。今となっては平日もあっという間。休日もあっという間。一週間がそんなに高速に過ぎるんじゃ、当然、一年が過ぎるのも速い。となれば、きっと一生だって――。

そこで考えてみた。思い返せば、時間がやたらと遅く進み、早く進んでくれよと願っても、一向に聞き入れてくれなかった瞬間ってあったよな、と。

その昔、コンビニエンスストアでアルバイトをしたことがあった。おっちゃんとおばちゃんがフランチャイズで経営するコンビニだった。それほど客足の多い店ではなかったため、レジに入っていても、さほどやることがない。

駅の近くに立地していたため、電車が停車した際には、ある程度のお客さんが固まって来店したものの、そうでない時間はパタッと客足が途絶えることもあった。

アルバイトといえば時給制だし、シフトに従ってその時間は仕事に従事せねばならん。今のように、ちょっと仕事が煮詰まってきたから、気晴らしに読書でもしよう、などと時間を自由には使えない。何がなんでもその時間を、コンビニの業務に捧げねばならんというわけだ。

精神年齢もまだ幼かったあの頃。仕事中はずっと「早く仕事終わらんかなぁ」「早く帰りたいなぁ」。そればかり考えていた。しかしだ、暇なコンビニでの勤務中の、あの時間の速度の遅さを見くびっちゃいけない。願えば願うほど、時間は進んでくれないのだよ。

そのコンビニでは、レジと対面する壁側の天井付近に時計が設置されていた。つまりは、レジから視線を真っ直ぐに注げば、自ずと時計と目が合うレイアウトになっているというわけ。これが曲者だった。

あまりにもやることがなさ過ぎて、ボーッと立ち尽くしていると、ついつい時計ばかりを眺めてしまう。が、眺めれば眺めるほど、時間は先へと進んでくれない。終業時刻まであと2時間も残っている、なんてことになれば大問題。たった1分進むだけでもこれほど遅いのに、今からあと2時間もやり過ごさねばならんなんて……。

時の遅さに苦悩した挙げ句、あるゲームをやってのけることにした。それは、目をつむり、心の中で5分をカウントし、時計の針がちょうど5分経過したかを当てるゲーム。これに没頭していれば、確実に5分はやり過ごせる。なんて妙案。自分で自分を褒めてやりたくなった。

しかし問題が発生。早く仕事を終えて帰りたいという気持ちが強すぎて、心の中で5分をカウントするスピードがあまりにも速すぎた。「よしっ! 5分経った!」と叫び、時計に目をやると、まだ1分も経っていない。これじゃゲームどころじゃない。自分の中では5分を過ごしたつもりが、実際のところ、5分の1しか時間が進んでいないじゃないか。これじゃ逆効果だ。あかんあかん。そして、そのゲームは二度と催されることがなかった。

と、こんな感じの経験から、やることがないと時間は遅く進む仕組みになっているのでは? と考えてみた。いや、違うな。何もせず、暇を持て余して過ごした一日は、何もしなかったことを後ろめたく感じてしまうほど、一瞬で過ぎ去ってしまう。

旅行などで1日のスケジュールをミッチミチに詰め込み、その日のうちに何箇所をも移動し、実にたくさんの新鮮な経験をするような1日も1日。ゴロゴロしながら特に何もせずに過ごす日も同じ1日。中身の濃淡によって、これほどまでに1日が持つポテンシャルが変わるものかと驚嘆させられる。

そういえば、楽しくないと感じる時間も、遅々として進まない。思い返せば学生の頃、「早く授業終わらないかなぁ」と願いながら受ける授業のおよそ1時間は、その何十倍にも感じられたものだ。なるほど、1日を嫌なことで埋め尽くしてしまえば、人生を長く過ごせるってことか。

いやいや。そんな人生、誰が好き好んで望むものか。できれば楽しいことで埋め尽くしたい。それが本音だ。でもでも、「楽しい時間はあっという間に過ぎてしまう」なんて言われるように、時間のスピードは速くなると相場が決まっている。

あかん。八方塞がりになってしまった。所詮、人間なんてものはちっぽけな存在。時間という圧倒的存在を前にすれば、刹那にして、なすすべを失ってしまう。

だとすると、こう考えてみてはどうだろうか。時間は過ぎゆくもの。遅かれ早かれ人生は終焉を迎えてしまうもの。しかしだ、過去を振り返る際には、実に愉快な場面が多かったと、微笑ましく回顧できるような人生。そういうものに仕上げることができれば、長き一生を生きたことになるのではないだろうか。

またしても妙案を思いつき、ウキキキと奇声じみた声をあげる。ついに答えに辿り着いたぞ。ひゃっほう。

自分の中でイベントとされる出来事は、過去を振り返ったとき、容易く思い出せるものだ。就職やら受験やら引っ越しやら。他にも、文化祭やら夏祭りやら、極端にいうと、ケガや病気というネガティブな場面ですら、思い出の1ページとして脳裏に浮かんでくる。

例えば、旅行をした記憶は容易に思い出せるかもしれないが、その旅行の一週間前の、とある日の記憶は残っていないはず。だって、これといって特徴のない普通の一日だったんですもの。そう考えると、特徴のない一日っていうものは、記憶から抹消される時間ということになる。なかなかシビアな話になって参りましたな。

ぐぬぬ。ということはだ、仮に平々凡々な今日を過ごしてしまっているならば、今日という一日は、未来の自分から抹消されてしまう自分。その事実をしかと受け止めるならば、今この瞬間の生き方も変わってきやしないだろうか。「今を生きろ」的な格言は数多あるが、そうしなければ、未来の自分から消し去られてしまうというわけだ。

もし、今日という一日が雨の日で、思い立ったように家から飛び出し、裸足で1時間ほど外を走ってみればいい。そんなバカなことをした記憶は一生残り続けるだろう。そして、ズブ濡れになって走っている刹那、こう大声で叫んでみればいい。「未来の俺よ、悔しかったらこの瞬間を忘れてみやがれ!」と。

そう。今を充実させることは、未来の自分に向けての挑戦。きっと「今を生きている」ことが生々しく実感できるはずだ。と同時に、雨中を裸足で、しかも叫びながら走っている奇行が悪目立ちし、警察から職務質問を受けること間違いなしだ。

なるほどな。ルーティーンを破壊すればいいんだ。昨日と今日と明日が似たような一日じゃダメなんだ。未来の自分にしっかりと覚えておいてもらわなくちゃ。日常をかき乱そう。そうすることが結果的に、時間を大切に扱うことになるんですもの。

そう思い、手始めに、毎度毎度同じような広告デザインばかりを要求してくるお客さんに対し、グッと印象に残るエッジの効いたデザインを提案してみた。広告だってそうだ。毎度同じじゃ、消費者に飽きられる。変化は重要。たっぷりと気持ちを込め、時間を使ってデザインしてみた。

「ん? いつもと同じデザインでいいよ。急にどうしたの?」とお客さん。そりゃそうだ。先方は変化など、何も望んでいなかったのだ。ルーティーンでよかったわけだ。エッジの効いた案が廃案になったのはいうまでもないし、気持ちを込めてデザインしたその時間も無駄に終わってしまった。

時間を大切に扱うつもりが、結果的に時間を無駄にしてしまったことに後悔しながらも、何か爪痕を残さねばと空を見上げる。ポツリポツリと雨が降りはじめてきた。よし、雨中を裸足で走るチャンスはまだ残されている、と心に闘志の火を燃やした。

デタラメだもの。


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