h >o という不等式が生み出す”分断”
フランスの経済学者、トマ・ピケティ。彼が2013年に出版した『21世紀の資本』のなかで、以下の不等式を用いてとある主張を行った。
r>g
rは資本収益率、gは経済成長率を指している。
漢字ばっかりでムズかしそうな雰囲気なので、これを簡単に説明すると、
ということらしい。
つまり「格差はどんどん広がるぜェ?」とピケティさんは言っている。
私はこれを、大学の授業でならった。そのときは別になにも思わなかったのだが、最近あることに気がついた。この「r > g」的な現象が、もっと身近なところで起こっていたのだ。それはもう、毎日の生活において、肌で感じるレベルまでに……。
から揚げは「心の」赤い羽根募金
私が気がついたことは、以下の不等式で表せる。
h > o
hは白米、oはおかずを指している。
これはつまり、とある食事の構成において「おかずよりも白米のほうが多い」という状態だ。
具体的には、白米1合に対して、おかずが納豆と卵焼きと梅干しだけ、といった具合だろうか。
ひとり暮らしの成人のメシであれば、まあこんな構成でも問題はない。しかしなんだかコレ、あまりにも寂しすぎないだろうか。
まるで白米を胃に収める作業要員として、おかずが存在しているようなものだ。白米サイドにしたって、もっと自分を楽しんで食べてほしいはず。しかし「娯楽」に至るほどおかずがないので、そうもいかない。
これでは寂しすぎる。それになんだか、人間の食事としてあまり豊かではない気がする。もちろん、経済的な理由などで h > o の状態になってしまうのは仕方ない。だがそこまでカツカツでないのに、白米を処理するためだけのおかずを口の中に放り込んでいくのは、やっぱり虚しい気がする。
この食事構成には、わりと育った環境が影響していると思う。我が家はまさに h > o の家庭だった。白米ドォーン!おかずチョン……。という感じである。
母があまり料理好きではなかったのでこうなったが、たとえば私と反対の o > h の家庭で育った(と思われる)人と食事をすると、驚くことがある。それは、o > h の家庭で育った人は、他人におかずを分け与えることに、まったくためらいがないのだ。
たとえば o > h の家庭で育ったっぽい人と定食屋に行ったとする。私がサバの塩焼き定食、向こうがから揚げ定食を頼んだとする。
いざ食べ始めると、私のような h > o の家庭で育った人間は、いかに目の前のサバで白米を処理できるか考える。
「サバの切り身で白米を2/3終わらせて、あとはしば漬けと味噌汁で処理して、と……」
という具合だ。
私にとって目の前の人に、サバの切り身を分け与えるという選択肢はない。これはケチというより、身についてしまった悪しき習慣だと思う。もしくは防衛本能。少しでもおかずが減ることで、h > o の比率がどんどん高まっていくことに対する恐怖感が、根底にあるのだ。
しかし、である。
o > h の家庭で育った人間は違う。彼らはなんの迷いもなく、
「あ、このから揚げうまっ。食べる?」
といって、貴重な「o(=おかず)」を私に差し出してくれるのだ。なんと心の豊かなことだろうか。
こうして格差は広がっていく。
h > o というスタンスの人間は、自分のためだけに食事を行い、腹を満たすことに必死になり、心が貧しくなっていく。いっぽう、o > h の人間は他人と食事の楽しみを共有するために、おかずをジャンジャン分け与え、ますます心が豊かになっていく。
これはヤバイ、と思った。
このままでは、完全に"持たざる者"になってしまう。
h > o の習慣をできるだけ取っ払わねば。私は、できるだけひとりの食事でも、o > h の構成になるよう意識しはじめた。そして発見した。ファミマの「お母さん食堂」が、私の救世主となってくれることに。
たくさんのおかずに囲まれた食事は、とてもいいものだった。
今後は o > h 派の急先鋒として、道行く人びとにおかずを配って回りたいと思っている。
ちなみにこの現象は、パンでも同じである、ということだけ付け加えておく。
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