「よいしょ」を連発していた、あの英語ティーチャーのこと
昔は理解できなかったけど、今ならわかることがある。
たとえば酒だ。子どものころ、大人が酒を飲む姿をみて、「なんであんなものが好きなんだろう」と思った人も多いのではないだろうか。
ほかにも運動の大切さや、駐禁を切られる恐ろしさなど。その対象はさまざまだ。
だから年を重ねるにつれ、だんだんと“わかる”ことが増えていくのだと思う。「ああ、あの人、あのときこんな気持ちであんなことをしていたんだなあ」みたいな感じで。当時は理解できなかった誰かの言動に対し、きっと時を超えて寛容になれるのだ。
これが、大人になることの醍醐味なのだろうか。他者への不寛容さが減ることで、自分自身のストレスも減る。そうやって、量に限りがある感情の残高を、もっと有意義なことに投資できるようになるのかもしれない。
ガチャベルトの英語教師
私の通う高校に、とある英語教師がいた。
服装はいつもチェックシャツにカーゴパンツ。サンダル履きで、縁なしメガネに天然パーマ。腰にはカーキかベージュのガチャベルト。かなり高い位置でズボンのウエストを絞っていた。
どうも心の内を読みきれない性格で、普段はイジワルな感じだけど、たまにタメになることを教えてくれたりする。そんな感じの先生だ。
彼の口グセが「よいしょ」だった。たとえば、生徒に配るプリントを準備するとき。乾燥した指先でプリントをめくりながら、「よいしょ」。黒板に文字をかくとき。チョークで丁寧に線を引きながら、「ん~、よいしょ」。
彼はことあるごとに「よいしょ」と口にした。彼のモノマネをするとき、生徒たちがデフォルメするのはもちろん「よいしょ」の部分だった。
なぜ、彼は「よいしょ」と口にするのか。当時高校生だった私にとって、それは理解しがたい行動だった。もしかしたら、ウケ狙い? もしくは、誰かの口グセがうつった? 大した考えも思いつかず、なんとなくスルーしていたのだ。
しかし先日、彼の「よいしょ」の謎が解明した。あれはたぶん、どうしても発せずにはいられない言葉だったのだと。これについてダラダラと書いていく。私調べの統計上、3割程度の人間はこの「よいしょ」及びそれに準ずるワードを普段から連発していることを、あらかじめ明記しておく。
ZOOMが教えてくれること
私の職業はライターなのだが、先日、ZOOMでとある人物のインタビューを行った。いわゆる著名人と呼ばれる相手で、ただでさえ緊張しやすい私は、いつも以上にあたふたしていた。
ちゃんと準備はしたけれど、大丈夫かな。変な質問とかしちゃって、やばい空気にならないかな。
とくにZOOMでインタビューを行う場合、対面よりも「変な空気」が生まれやすい。これは別に、インタビューに限った話ではない。友達とコミュニケーションを図るにしても、やはりオンラインだと妙な時差が生まれやすく、対面よりもやりずらいのだ。そんなワケもあって、私はその日いつもよりも緊張していた。
インタビューが始まった。企画の意図を説明し、話を聞いていく。その内容がやや専門的なものだったので、私は画面共有をしながら質問することにした。私のパソコンに入っている資料を、向こうに提示しながら話を聞くのだ。そのためには、ZOOMの画面共有機能を使う必要があった。
「ではちょっと、画面共有します~」
そう言いながら、デスクトップ上に用意しておいたファイルを開く私。が、開いたファイルがぜんぜん関係ないもので、思わず固まる。
「あれ、違うな……。これのはずなんだけどな……」
いったんファイルを閉じ、再びクリックしてみる。が、もちろん現れたのは先ほどのファイルである。せっかく準備していたはずなのに、違うファイルだったのだ。焦る。いろいろなフォルダをクリックしながら、中身を確認していく。
「すいません、ちょっとお待ちを……💦」
まさに (;^_^A こんな感じの顔になりながら、次々とフォルダを開く私。ない。お目当てのファイルがない。インタビュー相手が黙っている。同席した第三者も黙っている。聞こえるのは、私がカチカチとマウスをクリックする音だけ……。地獄の沈黙が続いた。やばい、どうしよう。誰もしゃべらない。世界から言葉が消えたのかと思うほど、静かなZOOM空間だった。
麻布の高台、静謐のレジデンスに住まう──。
電車で見たことのある、マンションの広告が頭をよぎる。ええい、やかましい。今の私にとって、港区の静けさなどどうでもいい。むしろ今は音が欲しいのだ。誰かの声を、聞きたいのだ。
蒲田の駅前、喧騒のレジデンスに住まう──。
そんな感じのガヤガヤとしたサウンドが恋しかった。話を戻そう。
相変わらずファイルは見つからない。まずい、このままでは、マウスのクリック音が続くだけ。なんとかしなければ……。そのときだった。私の口から、あの言葉が飛び出したのは。
「……よいしょ」
発したとたん、心が軽くなるのを感じた。この音なき世界に、突如現れた救世主。メシア。助け舟を見つけた気がした。そこからはデスクトップ上のさまざまなファイルをクリックするたび、私は「よいしょ」と言葉を発していた。
「あれ……これも違うな。ん~よいしょ。マウスカチカチ。これも違う。じゃあこっちかな? ん~よいしょ。ああ、全然関係ないやつだ(汗) よいしょ、よいしょ、よいしょ……」
そうしていると、無言の重圧が幾分かやわらいでくれる。だんだんと余裕が出てきた。そのおかけでじっくりと探せたので、最終的にお目当てのファイルが見つかった。
「アハ〜よいしょ。ありました。ありました。ではやっと共有しますね(笑) よいしょ!」
私は元気いっぱい、画面共有のボタンを押したのだった……。
意外と緊張していた、という仮説
さて、このZOOMの件があって、私は冒頭の英語ティーチャーを思い出したというワケである。
彼がことあるごとに発していた「よいしょ」。その正体はおそらく、無言の沈黙を恐れるがゆえの言葉だったのだ。
プリントをめくっているとき。生徒たちとの間に無音が生まれると気まずいから、よいしょ。チョークで線を引くとき。背中を向けて無言だと怖いから、よいしょ。
そうして巧みによいしょを使いこなすことで、彼は心の均衡を保っていたのだ。普段は飄々としていて皮肉屋な雰囲気だが、その実は緊張しいで、よいしょを言わずにはいられない。
なんだか10年の時を経て、彼のことが可愛らしく思えてきた。きっとこの先、生涯あの人と再会することはないだろう。しかし仮に時差があったとしても、他者に対して寛容な気持ちになれるのは、なんだか自分としても嬉しい。思わぬきっかけではあったが、あのガチャベルトの英語教師に、改めて感謝したい次第である。
させていただきます、もたぶん同類
これに付随して、ひとつ思ったことがある。
ビジネス上で多用される「させていただきます」という過剰な謙遜・丁寧語も、「よいしょ」と同類ではないのだろうか、ということだ。
あれを使う人の心理としては、「ちょっと無理なお願いや、出過ぎた真似をしてしまって申し訳ない。でも、やらないワケにはいかない。だから本当にすまへんけど、こうしてご連絡してる次第でありマス」という感じだろう。
で、普通に文書をつくるだけでは心が持たない。そこでクッションとして、緩衝材として、「させていただきます」を使うのではないだろうか。
正直、あれは文が読みにくくなるだけで、クッション材としての機能はそこまで果たせていないと思う。しかし使う人の心理を考えると、別に非難する気にもなれない。あれを使うことで誰かの心が軽くなるのであれば、甘んじて受け入れようと思う。私自身も、マジでヤバいときは「よいしょ」的に使うことはあるのだし…。
という感じで、「よいしょ」についての仮説を書いてみた。みなさんはこの「よいしょ」を、使う人だろうか。使わない人だろうか。
もしあなたの周りによいしょマンがいたとしたら、たとえイラついたとしても今後は優しく接してあげてくれると幸いである。それはもしかしたら私かもしれないし、本当にピンチのときのあなたかもしれないので…。
\よいしょ/
😎
↑
このテンションでよいしょできるように、なりたいものである。
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