【掌編小説】至上命題

その花の前に、ぼくは片膝を立ててしゃがみ込んだ。
まるで雪の結晶のように小さくて愛らしいそれは、こけ繁茂はんもした、霧の立ち込める深いやぶの中にぽつりと咲いていた。
ぼくは、胸ポケットからルーペとピンセットを取り出した。地面にひざまいて、苔の絨毯じゅうたんに片耳が着くほど背を丸めて、花に顔を近づける。毎年毎年、同じ時期に、同じような風景の中で、もう幾度となく繰り返してきた動作である。
震える指先になんとか力を込めて、ピンセットでその花弁の一枚をつまみ、そっとめくり上げる。
そして、ぼくは息を呑んだ。ルーペ越しに映る花びらの裏側には、夜明け前のような瑠璃色を帯びた、つやめく光の粒が点々と着いていた。
大きさ、形状、質感、場所、時期。体系上の分類、環境条件。どれも、知見と一致する。
額から頬に滑り伝った汗の雫が、長い時間をかけて地面へとしたたり落ちて、苔の奥底へと吸い込まれる―――その音を聴いた。
ぼくは上体を起こして、リュックサックからカメラを取り出した。レンズを絞って、けれどシャッターは覗かずに、手に持ったカメラだけを花弁へと近づける。
ああ……。
ずっと、ずっと探していた、何度も夢にまで見た花。その花弁の裏側で密やかに身を寄せ合う、青のきらめき。
ムゲンボタルの卵。
この目で見たのは、これが三回目だ。

初めて出会ったのは、忘れもしない、五歳の夏。夏至の祭典の雑踏で両親とはぐれて、涙を必死にこらえながら彷徨さまよっているうちに、知らない教会の霊園へと迷い込んでしまった時のことだ。
茂みの中に、煌々こうこうと瞬く青い宝石を見た。草木をき分けて近づいてみると、あるひとつの花だけが、燃え上がるように青く発光しているのである。
さらに目を凝らすと、どうやらその光の正体は花ではないらしい。
白くて小さな花。指先でその花びらをそっと捲ると、それは姿を現した。
ぼくは一瞬、呼吸を、自分が生きているということすらも忘れて、恍惚こうこつとしてその青い光にせられていた。この光景が、ぼくの目の前に在ってゆるされる物なのか。こんなに美しい光が、自然界には存在し得るのか、と。まるで、世界の裏側でうたた寝をしている天使に、誤って遭遇してしまったかのような、そんな途方もない罪悪感に駆られたことを今でもよく憶えている。
これを「きれい」と呼ぶのだ、と確信したのは、その時だった。
それ以来、ぼくがその秘宝を目にすることはなく、そのまま四十年の歳月が経った。
二回目に出会った時、ぼくは四十五歳で、植物学者になっていた。今振り返ってみれば、ぼくが植物分類学、とりわけ花の系統分類学の研究者をこころざすことになる未来は、あの青く煌めく光の粒を初めて目の当たりにした瞬間から決まっていたのかもしれない。
農学部の研究室で植物学の博士号を取得した後、大学で学生向けの系統分類学や植物生理学、昆虫学などの講義を受け持つかたわら、ぼくは植物分類学に基づいた花の種分化に没頭していた。ある日は森に出向いて、またある日は砂漠に出向いて、採取してきた花を体系化された分類表に照らし合わせてみては、該当する群に、通称や学名を記した項目を新たに追加していく。基本的に、一年を通してその作業を繰り返す。時には発見したそれが新種であることが明らかになったり、自作した系統分類表が国際的に権威のある学術雑誌に掲載されたりと、要所要所で高い評価をもらう瞬間も多々あった。ぼくの書いた専門書が複雑怪奇すぎて、「学部生には難易度が高すぎる」と批判を受けたり、同時に「植物学界に革命の旋風せんぷうを巻き起こした名著だ」と絶賛されたりもして、ぼくは植物界隈かいわいを少しだけにぎわしていた。
でも、国から、そして世界からどれほどたたえられようが、ぼくの抱いていた空白が満ち足りることはなかった。
結果的に、「なんだかよく分からない、でもなんとなく偉いのかもしれない植物博士」として変な感じに名をせることになってしまったのだが、研究をしていたというよりかは、ぼくにとっては完全に趣味の領域を出ない行為だった。ぼくがやっていることは、数学や物理学などの技術開発に深くたずさわるような崇高すうこうな学問ではなく、単なる植物種の分類である。別に、目先の利益と直接的に繋がるような発明はしていないし、遥か遠い未来の人間社会でようやく役立つような発見をしているのだとも到底思えない。だからこそ、たびたび寄せられる賛辞の中で愉悦ゆえつに浸れるほどの余裕もなく、教室での講義中も、共同研究での論文執筆中も、学会での発表中も、ぼくの頭の片隅では常に、四十年前に見たあの青い光が陶然とうぜんと揺らめいていたのであった。
別研究のフィールドワークで訪れていたとある湖のほとりの湿地で、それは再び、ぼくの前に姿を現した。
ぼくは呆然と立ち尽くしてしまい、しばらくその場から動くことができなかった。どれだけの月日が流れても、半ば専門を逸脱いつだつしたような分野の研究に追われていても、身体は無意識のうちに、地面に煌めく青を探していたのだろう。
ぼくは慌ててその花に駆け寄り、膝が擦り剝けるほどの勢いで苔の床に滑り込んだ。
雪の結晶のような小さな花、その裏側で光を放つ、瑠璃色の宝石。見紛みまがうはずもなく、ぼくにはそれが、四十年ぶりの再会であるとすぐにわかった。時が流れるにつれて思い出す瞬間が日に日に減れど、片時も忘れたことはない、ぼくという人間を研究者たらしめているすべてが、そこに咲いていたのだ。
ぼくは即座にフィールドワークを中断し、ピンセットでその花の花弁を採取して自宅へと持ち帰った。
だが、それが失敗だった。
膨れて弾けそうな期待感を躍らせて帰宅し、改めてその花弁を採集箱から取り出してみると、あんなにも神秘的に輝いていた瑠璃色が失われていたのだ。その時点でぼくは、とんでもないあやまちを犯してしまったということをさとり、光学顕微鏡で観察した後、その不安は確信に変わった。花弁の裏側に付着していた、光源であるはずの粒が、茶色くにごってくさっていたのだ。
それでも、些細ささいな発見も得た。
絶望の最中さなか、レンズを覗きながらその粒を観察し、その表面をおおう細胞膜をピンセットを使って破いてみると、どうやらそれはホタルの卵であるらしいということが判ったのである。
それはそれは不可解であった。
植物と虫は密接な関係にあるため、花の研究をしていると昆虫は必然的にからみ合う存在である。ホタルの光と言えば、黄色や緑色に輝くものというのが通説のはず。夜光虫やウミホタル、ホタルイカなどの海洋性の生き物であれば、瑠璃色の光を放つ生物種も珍しくないが、陸地に生息する昆虫のホタルで、発光器が青く見えるような種など聞いたことがない。
ぼくがこの歴史的大発見の第一人者になるべく、他の研究者にはその体験を秘匿ひとくして、ぼくは様々なホタル研究学会に足を運び、先行文献を山ほど漁り回った。しかし、案の定といったところか、ぼくが発見した卵らしき物体については、過去に全く情報がなかった。
……新種。
研究は慎重に進めなければならないが、すぐにそんな言葉が脳裏をよぎった。
この小さな花びらにのみ卵を産み付ける習性をもつ、瑠璃色の光を放つホタル。
これに残りの人生をけなければならない、そう思わざるを得なかった。そうしてぼくは、その昆虫を仮に「ムゲンボタル」と名付け、他者にぎつかれないようにひた隠しながら、その花とムゲンボタルの不可思議な相関関係を紐解ひもとく研究を独りで進めることにしたである。

天啓てんけいさずかったようなあの瞬間から、さらに四十年が経過した。
植物のことだけを考えて生き抜くことが赦されていたから、ぼくの過ごす日々は極めて平穏で、安らかなものだった。七十で契約満了となり、大学からは「名誉教授」なる大仰おおぎょうな肩書きをも頂いてしまい、どこか背徳的な罪悪感すら抱きながら、ぼくは大学教授の座を退いた。ただ好き勝手に究めていただけなのに、本当にそれだけで、生活に困らないほどのお金を頂いて、一部の学術界隈からは尊敬と嫉妬の入り混じったような眼差しを向けられながら、楽しく毎日を過ごさせてもらった。
学問には、果てがない。その世界の中心へ向かって踏み込めば踏み込むほどに、どんどん解らなくなっていく。解らないことが解るようになれば、また新たに不可解な事象が現れる。研究者という生き物は、延々と世の真理にはぐらかされ続ける宿命を背負っているのだ。その救いようのない真実だけが、強く抱きしめて壊してしまいたくなるほどに、はかなとうといものであった。
人類の叡智えいちなどを種族が滅ぶまで注ぎ続けたとしても、目と鼻の先に広がっているように見える自然には遠く及ばない。そう思い知らされ続けることが、本当に幸せだった。
だが、ぼくは焦っていた。
二度目の出会いにして痛恨のミスを犯したあの日以来、見つけられていなかったのだ。
その頃になると、ぼくはムゲンボタルの研究に全神経を注ぐために、時間稼ぎの布石をただき散らすばかりの日々を送っていた。並行して進めて完成まで至っていた別研究の論文を、細かい章に分けて区切りながら、学術雑誌に少しずつ小出しにして発表する、なんてこともしていた。できれば、もう学生向けの授業は受け持ちたくなかったし、他者との共同研究に時間を浪費することも避けたかった。
名誉教授となり、謎めいた委員会に出席したり、講義を担ったりする必要もなくなり、あらゆる束縛から解放され、ぼくは晴れて自由の身となった。死ぬ予感はまだまだなかったが、それでも、社会的に見れば高齢者である。思考力がおとろえ、感情の制御が利かなくなり、野心の灯火がしぼんでいくさまを、おどろおどろしい現実味をともなって突き付けられる毎日である。
棺桶かんおけに片脚突っ込んでいるような老体が、本当に使い物にならなくなってしまう前に、あの青い光の正体を、なんとしても知らなければならない。
ありとあらゆる系統分類に照らし合わせて、その花が好んで生育すると推測される場所を割り出し、ムゲンボタルの卵が産み付けられる環境を模索する日々。自暴自棄の底無し沼に引きり込まれそうになる躰を、理性でなんとか初心に留めながら、ぼくは条件と合致する初夏の湿地帯を祈るように歩き回った。

そうして、気づけば、ぼくは八十五歳になっていた。
瑠璃色の宝石が、たしかに、ここに在る。
こんなにも近くに、涼しげな顔をして、平然と咲いている。腕を伸ばせば、触れられるではないか。
すさんで枯れ果ていた心に、うるおいをまとった火が灯る。
ずっと、君だけを探して、日に日に機能しなくなる躰を引き摺って、生き長らえてきた。ここまでの歩みが、たったこれだけで、すべて、すべてむくわれてしまうのだ。
ああ……、なんと、なんと恐ろしいことか。
我をも忘れていた。シャッターを切ることもできない。感動を飛び越えた、空気も音も光もない無の域に放り出されていた。まるで、世界の裏側でうたた寝をしている天使に、誤って遭遇してしまったかのような、そんな途方もない罪悪感に、ぼくは駆られた。
そして―――

きれいだ。
そう、心から思った。

採取してしまうと、四十年前の二の舞を踏むことになる。写真を残して、早速、この場で分類調査を―――


「狂気の沙汰、ですね」
遺体の司法解剖の結果を待ちながら、わたしは先輩と肩を並べて、ティモシー博士の手記に目を通していた。
「博士は、他の奴らから何を言われようが、自分の眼で確かに見た物を最期まで信じて疑わなかったんだろうな。まったく、馬鹿で愚かな男だ」
彼の残した手記を閉じた先輩は、そう信じないとやっていられない、とでも言いたげに、口元を苦々しくゆがめてそう言った。
ムゲンボタル。ティモシー博士が遺した手記に記載されているような特徴をもつ種のホタルは、未だに発見されていないという。
霧深い樹海の奥地で彼を発見した時、わたしは、彼が生きていると思っていた。地面に片膝を立てて、しゃがみ込んでいたのだ。その両手にはカメラが握られていて、レンズは、地面にわずかに残った雪に向けられていた。
その体勢のまま、彼は死んでいた。
彼のまなこには、一体、何が見えていたのだろうか。
「博士は、子どもの頃に見た存在しない幻覚にほだされて、それをずっと追い続けて、そのまま生き抜いたのでしょうか」
わたしは息苦しくなって、先輩に問うでもなく言葉を吐いた。
最期までまぼろしだと気づくことなく死ぬことができれば、それは、真実になり得るのだろうか。
「……さぁな」
先輩がひとつ深呼吸をして、低い声で小さくそうこぼした。


* この物語はフィクションです。実在する人物や団体などとは一切関係ありません。

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