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日本の消費期限は案外短いのかも知れない

 ここは│何処《どこ》の国だろうかと思わず目を疑うような光景だった。確かに建物やその風景や蒸し暑い気候は日本そのもの。しかし行き交う人々は海外からのツーリストばかり。ベビーカーを引く人も、自転車の後部に子供を乗せて走る人も皆、外国人旅行者。あらゆる国の言葉が飛び交う。地元の店員だけが日本を背負って笑顔を振り撒いていた。
 京の都に降り立った妻は、ここに住む人達はひっそりと息を殺して生きてるんだね、と言った。

 日本はこれまで、世界中の多様な文化を上手に取り入れて発展してきた。仏教、食事、漢字やそれをもとに作られた仮名といった文字、そして言葉。海外から輸入したものに日本独自のエッセンスを上手く絡めて、灰汁を抜き脂を落として深みのある味わいを育んできた。
 そうした海外の要素を取り込むプロセスはしかし、日本という│内《ウチ》に│外《ソト》のものを取り込むものだった。周囲を海という厚い壁に守られた内は歴史上何度か外からの侵略に曝されたが、内と外の間には│海《うみ》以外にも見えない心理的・文化的な膜があって護られてきた。

 外国人ではなく外人という呼び方が排他的に思えて嫌だ。日本に住む外国人に良く言われることだ。外人さんでいる限り日本人になれないと思っているのかも知れないが、日本で生まれ育たずには、容易には日本人にはなれない。
 外国人が日本国籍を得るのが難しいのは確かだが、そういう事ではない。日本に住む権利を持つ人なら日本人になれるというものではない。
 日本を日本たらしめ、日本人を日本人たらしめているのは、地震や川の氾濫、台風といった自然の脅威に触れながらも、四季の中で暮らし旬の食物を摂り、自然の恵みに感謝するといった自然観。自然を利用するのではなく、自然の中で生かされる有り難さを噛み締めながら生きる文化。
 そうした感覚は知らず知らずのうちに世代間で受け継がれてきたものだ。

 しかし今は│出汁《だし》の旨味を感じられない人が増えているという。幼少の頃から食べつけていないと旨味は感じられないらしい。塩気や甘み、脂味等の様な強い味に慣らされた舌には、淡く広がる出汁の旨味は検出限界以下で、もの足りなさにも及ばないのだろう。
 口内に広がり鼻に抜ける香りと、残像となって染み込む余韻。そんな深みのある出汁の味わいを喜べるのは、日本ならではであったはずだ。それが日常だったはずが、今では高価な懐石料理でないと味わえない。
 家庭の味が時代とともに変わって行くのは止むを得ないにしても、日本食らしい美味しさを食べつけるには、家庭の味が大切なのだと改めて思った。

 長期の休暇となれば海外旅行に行くというのが日本人の主流になって久しい。海外でバリバリ働く日本人も多い。確かに外を知ることは大切だ。
 それでも、日本らしさが売りの観光地にいるのがガイドも含めて皆、外国人という光景は少し残念だ。日本を知ろうとする日本人はいないらしい。日本を知って貰おうという日本人も見当たらない。
 海外に行って、日本はどんな国かと問われた時に、胸を張って誇りを持って的確な説明が出来る日本人はどれだけいるだろうか。
 インバウンド旅行者の復活に喜ぶのは悪くないが、日本人のいない日本の観光地は、かつての日本を表した展示物と化した安いアミューズメント・パークのひとつでしか無いように思えてきた。そこにはもはやありのままの日本は無く、外国人キャストが楽しそうに「おもてなし」していて、当の日本人は物陰でひっそりと外国人風の生活をしている。そして今や、│蓼《たで》や│霞《かすみ》を食いつないでいる。

 そう考えると、日本の消費期限は案外短いのかも知れない。

おわり
 

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