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明日、春が来たら


買い物に行かなきゃ。
そう思い立って早1時間が過ぎた。

もうすぐ11時になるというのに、起きてからずっと横になったまま本を読んでいた。なんとなく手に取った積読だけれど、意外と面白い。
一応、とカーテンを開けた窓からは、すっかり春の陽射しが流れ込んでくる。

性格上、出かけるのは明るいうちのほうがいいというのは分かっている。
夕方にもなると、それまで外に出なかったことへの罪悪感のようなものをぶらさげることになるからだ。
それに今日は13時から見逃せない番組がある。絶対にそれまでに戻ってこなければならない。

使命感に駆られた私は、一通りの準備を無の感情で進めた。
洗顔。スキンケア。歯磨き。薄手のパーカー。濃いネイビーのジーンズ。くるぶし丈の靴下。マスクで隠れるからと、日焼け止めと眉毛を描いて顔は完成とする。
昨日暖かったことを思い出して白いマウンテンパーカーを羽織った。
エコバッグを2つ持って、外に出る。

寒い。寒いぞ。

全然想定していない。とにかく風が冷たい。
窓からの陽が暖かかったから、油断した。
ドアを開けて3秒で部屋へ戻り、ニット素材のトレンチコートを羽織り直した。
一瞬、行かない、という選択肢が脳裏に浮かんだが、振り払ってやった。意を決して外へ出た。

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考えなくても手が自然とポケットに入れたイヤホンに伸びる。
時代はすっかりAirPodsだが、私は高確率で片方を失くすことが分かっているので、今は買わない。
聴きたい時に音楽が聴ければなんでもいい。

松たか子の「明日、春が来れば」をかけた。お、今日は右耳か。
私のイヤホンは暫く前から、片耳からしか音が流れない。でも聴ければそれでいい。
むしろ、片耳だけで鳴る音楽は、まるでそこにだけ小さな別世界が佇んでいるようで、嫌いではない。
今は、右耳から流れる松たか子の歌声が、誰にも触れられない宝物のように思えた。

歩き慣れた道を歩いていく。
最近見かける大工さんたちは今日はいないようだ。お休みだろうか。この前かけていたラジオはどこの局だったんだろう。

近くの公園で遊んでいる親子が目に入る。2人ともパーカー1枚のようだ。寒くないのだろうか?
私なんて、トレンチコートの布でしっかり身体を包んでまで防寒するくらいだ。あんな風に走り回っていたらコートなんていらないのだろうか。

私は、公園の家族連れをしっかり観察してしまっている自分が不審者に見える可能性に気付いた。まだスマホをいじっている方が良かったかな。歩きながらだからまだましだろうか。私が男性だったらどう見えているだろうか。
こんな晴れ晴れした日に考えることじゃないよな、と思い直す。

今日は雲がなくて綺麗な青空だな、などと遠くの空を眺めていると突然、目の前に何かが落ちてきた。物体ではない。液体だ。
もしや...と恐る恐る視線を上にあげると、居た。2匹のカラス。気持ちよさそうに身体を揺らしている。

まさか私めがけて致したんじゃないよな、とカラスを警戒する。あと2、3歩、歩くのが早かったら間違いなく頭上に落ちていただろう。いつも早く歩いてしまう癖があるが、この時ばかりはのんびり歩いていた自分に感謝した。鮮やかな黒から鮮やかな白が放出されたのを想像して私はカラスから目を逸らした。

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そんなこんなでスーパーへ入店した。祝日の昼前だからかそこそこ人が多い。
買い物に行く時は事前にリストを作っていくから、気持ちは確かだ。

この冬は鍋にハマって、一人用の土鍋まで買ってしまった。まだ冷蔵庫に、4人用の鍋の素が2つも残っていることを思い出す。野菜が思ったより安くてテンションが上がった。ネギだけは相変わらず高いけれど。

ふと、ポップが目に入る。「組み合わせ自由!3点まとめて購入で特別価格!」の文字。
ショーケースの中を見ると、ジャンル様々な食材が売並べられていた。

どうしよう。
予定にない買い物になる。
咄嗟に思い出そうとした。これらと一緒に必要な食材が、今家にあるかどうか。
そして頭の中でシミュレーションをした。記載されている賞味期限内に消費できそうか。
結局、うどん、焼きそば、納豆、という手堅いアイテムたちで固めることにした。

得した気分でレジへ向かう。これだけ買って1000円ちょい。なかなかいい買い物ができたと思う。

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ヨーグルトを買い忘れたことを思い出しながら、帰路につく。
戻ることもできる距離だけれど、面倒だ。
何より13時までには完璧な状態でテレビの前に着座していなければならない。

歩いていて気が付く。のこのこと先ほどのカラスエリアを歩き切っていた。
幸いもう乾いていて何も害はなかったが、自分の記憶力のなさに驚いた。
さっきあれほど間一髪で冷や汗をかいたというのに、その1時間後にはケロッと忘れてしまっているのだ。
脳みそが上手くできていると言うべきか否か。とにかく踏まなくて良かった。

電線を見上げるとカラスがまだとまっているように見えたけれど、よく見ると電線の一部だった。
先が尖ってはみ出していて、いかにもカラスの尻尾に見える。
あれは故意にあるものなのだろうか?何という名前なんだろう。
一瞬ググるか迷ったが、やめた。
あれでカラスが寄らないというならそれでいいし、お構いなくカラスが来るならそれもそれでいい。

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家について手洗いうがいをし、買ってきたものたちを仕分ける。ついでに昨日洗っておいたお皿も片付ける。
ここまでを、一度も座らずに一気にやり終えられるかどうかでこの後の気持ちの持ちようが変わる。
自分でやらなければ誰もやってくれない一人暮らしで、家事を習慣化するのは意外と大変なことだ。

順調に埋まっていく冷蔵庫の中。
ああ、これは常温だから、と手に取った食パンを見て、今年はまだ山崎春のパン祭りのCMを観ていないことに気が付いた。
いや、観たのかもしれないけれども、思い出せなかった。何せ私は記憶力がない。
そもそもやっているのかな?とホームページをググると、今年も白いお皿を持って笑っている松たか子が出てきた。少しホッとした。

季節は確実に移ろいでいく。
来年はどんな気持ちで春を迎えるのだろうと、少し楽しみになった日だった。


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