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作者が身を挺して伝える、女vs男の単純構造では語れないジェンダー社会の複雑さ『女(じぶん)の体をゆるすまで』

【レビュアー/こやま淳子

なんで女なんかに生まれてきたんだ。

セクハラの話を、他人に伝えるのは難しい。

体験したことのある人間じゃないと、その恐怖やおぞましさの本当のところは共感しづらいこと。

話しながらその当時の嫌な気分がフラッシュバックして自分も辛くなってしまうので、つい軽い感じで話してしまうこと。

受け手側に「たいしたことないのに大袈裟に言いやがって」という感覚が往々にしてある(んじゃないかと話し手も思ってしまうので余計に言いづらい)こと。

そして、たとえ同じ性別であっても、その受け取り方が人それぞれであること(なので味方だと安心しきれないこと)。

などが理由としてあると思う。

#MeToo以来、その話しやすさは格段に変わったとはいえ、まだまだそんな世の中だ。痴漢被害の話をしてるのに何故か冤罪の話になっている、みたいなやりとりは、ネット上でもよく見かける。

そんな前提を考えても、この「女の体をゆるすまで」は、なかなかセンシティブなところに斬り込んだ漫画である。さらにこの漫画の作者ペス山ポピー先生は、「自分の性別絶賛迷子中」。つまり、いわゆるトランスジェンダーなのである。

そのペス山先生が、2013年にアシスタントをしていた漫画家・X氏にセクハラを受けたときの記憶を中心に、子どもの頃の体験や思春期の頃の友人の話など、性にまつわるさまざまなことを描いていくドキュメンタリー漫画なのだが、まずは表現力がすごい。

その当時の様子や作者の心の動きが臨場感とともに伝わってきて、こちらまで鳥肌が立ったり、鼓動が速くなったりする。

なんであの時ああしなかったんだ。逃げればよかった。情けない。意気地なし!
なんで女なんかに。なんで女に生まれてきたんだ。

自分が女だという感覚が持てていないのに、成長するにつれ周りの見る目がどんどん変わっていく。そしておぞましいセクハラを受け、それでもそこで働くしかない時間を過ごせば、そんな気持ちにもなるだろう。

私としては、半分は凄まじい共感、半分は全くわからないトランスジェンダーの苦悩を同時に体験し、ぐいぐい引き込まれてしまった。

セクハラを「なんとも思わない」女性もいる

そしてこの漫画のおもしろいところは、ひどい性被害に遭いながらも、「なんとも思わない」女性も登場するところだ。

上述したように、同じ性別であっても受け取り方は人それぞれ。その現実を作者の友人のエピソードでしっかり洗い出しているのだが、それはそれでまた衝撃なのである。「ええっ。こんな怖い目に遭ってるのにその反応!?」っていうやつである。

作者は、それを「砂利道の上を裸足で歩いている」と比喩する。自分は痛くて歩けなくてしゃがみ込んでしまったけれど、何も感じず歩いている人もいる。痛みを感じながらも、なんとか歩いている人もいる。それがいまのジェンダー社会というわけだ。

でもそれは本当にそうなのか? 彼女の言葉だけを信じていいのか? ペス山先生と編集者との考察のやりとりもまた奥深い。

ただのセクハラ告発本じゃない。

ストーリーは、ひどいトラウマでフラッシュバックに苦しむペス山先生が、カウンセリングを受けたりして自分自身と向き合い治癒しながら、数年後にX氏と対峙するところまで描かれる。

そこでやっと、X氏も「酷いケダモノ」ではなく、「普通の社会人」であることがわかっていく。その描き方も、少なくともできるだけ客観的でフェアであろうとする作者の真摯さが伝わってくる。

これはただのセクハラ告発本じゃない。女 vs 男なんて単純な図式では語り尽くせない「ジェンダー」という深い深いテーマについてすごいパワーを使って斬り込んでいる。私自身も、自分自身のジェンダー観について見直すきっかけになったと思う。


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