見出し画像

#45 倒れてもなお撃たれている著書

近藤康太郎先生の著書『三行で撃つ』にずっと撃たれ続けている。

未熟な私は「心を撃たれた」といった感動や感銘の意味で撃たれているわけではない。
どちらかというと「ノーグッドなんだよ、あなた」といった感じで、額にバツを書かれる、といった撃たれ方だ。
ライター業に譬えるなら、単純に「『ナンセンス』と書かれた赤入れだらけの原稿が手元に戻ってきた」という感覚。

「うわー、やだ私、この悪文の例どおりにめっちゃ書いてるやん」
「うっそ、私の擬態語はあざとくて恥ずべき陶酔文だったの?」
「どうしよう、こんなハイレベルな文献、手に取ったことすらない」


私は今年に入ってから「良い文章を書くため」の時間を、以前に比べてかなり作るようになった。
読書をし、写経をし、朗読をし、そしてこのnoteで平日は毎日エッセイを書いている。
しかし近藤先生の著書は1発、2発、3発……と「良い文章とは」のたまを額に撃ってくる。

「全然だめだ。そもそも近藤先生の脳みそってどうなってんだろう?
読んできた本のキャリアも、新聞記者という肩書きも……別次元ではないか」
撃たれて意識が遠のき、そんなどうしようもない考えばかりが膨らむ。
撃たれたところをおさえながら読み進めると、近藤先生はユーモアを交えながらまた撃ってくるし、手を差し伸べてくれたと思ったら聞いたことのない音楽や劇や落語の譬えでまた撃ってくる。倒れてもお構いなしで、とどめをさされるように私は撃たれ続けている。

そう、私の今までの生き方では習得不可能なレベルなのだ。
よーく分かっているのに、やはりこの本を読むことを止められない。

そして何を隠そう、この本を読むのは2回目。2023年の12月に1度読んでいる。
そのときは「ほうほう、なるほどなるほど」なテンションで読了した。
そんな過去の私は完全に自分と『三行で撃つ』を切り離して読んでいたのだろう。それを証拠に、1度目の読了の痕跡はドッグイヤーが3つほどしかなかった。
それが今回の読書で付箋とアンダーラインだらけになっている。

私はこれを約半年間の成長と思いたい。
「無理無理」と言いながら、どこかで自分がいつか良い文章を、人に読ませる文章を、書けるようになりたいと強く思うようになったという成長だ。

6月17日現在で、132ページまで読めた。
もはや付箋を貼るのが仕事かのように付箋がびっしり。
私の体、いや正確に言うと「脳」は、近藤先生の文章に貫かれて穴だらけになっている。それでも読みたい、読ませてくる著書なのだ。

「三行で人の心が撃てる書き手にしてやっから。そんな書き手になりたいなら、読め。なりたくないなら、読まなけりゃいい」

近藤先生のそんな愛情がつまっているように感じる。

だから「撃たれて弾が貫通し穴だらけになったとしても、たった1つの弾でいいから私の脳に留めておいてほしい」と、悪あがきをしている。


『わたしにしか、書けないものは、ある———』

この近藤先生の言葉を、一日でも早く自身で体現したい。















この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?