多種多様を否定することは否定せざるを得ないのか

物事の考え方は多種多様であり、それを尊重し合うべき。
という考え方がある。
その一方で、ある一つの考え方に従って、すべての人が動いていかないといけないという場面は必ず存在する。

多種多様な考え方を尊重するべきという考え方はひとつの矛盾をはらんでいて、一つの考え方に従うべきだという考え方を排除してしまっているのではなかろうか。
と、真っ直ぐに続く道を歩きながら思った。

歩く僕の横を当たり前に追い抜いていくたくさんの車たち。彼らの運転マナーに関しての多種多様な考え方は認められていない。
もし、認められていたとしたら、僕は死んでいるかもしれない。

向こう側から歩いてくる人が僕を刺殺す権利があるかという問いに対しても、多種多様な考え方は認められていない。僕もまた向こう側から歩いている人を刺殺す権利はない。

歩いている途中で、古本屋の存在に気づく。無人の古本屋。
僕にこの本を盗む権利は与えられていない。

僕はボロボロの紙に書かれた金額分、指定された箱に入れて、本を持ち帰った。

僕たちは社会の中である一つの集団を形成している以上、一つの考え方に従わなければいけないという考え方すらも受け入れて尊重しなければいけないということだ。

もしかしたら、集団を形成しないという権利は与えられているかもしれない。その社会では、ひとつの例外もなくすべての正義が尊重される。
ただし、そこに多種多様な正義は存在し得ない。

集団という制約の中に自由を求めている時点で、すでに矛盾は始まっている。
そのとき、僕たちは何かを尊重して何かを切り捨てないといけない。それ自体が自由を制約していると考える人もいるだろう。

僕たちは矛盾だらけの社会の中で、矛盾さえもよしとして生きていくしかないのだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?