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【大学受験】進学校の定義

最近、YoutubeのCASTDICE TVを見ることがあるが(面白いし役に立つ)、その中でコバショー先生が興味深いことをおっしゃっていた。

それは「進学校の定義について」だ。
コバショー先生がおっしゃるには、東大合格者ランキングで全国20位くらいまでが「進学校」と定義づけられるそうだ。
あくまでコバショー先生の主観だとおっしゃっていたが、まあ、プロのおっやることなので、正しいかと。
ちなみに筑駒、灘は「超進学校」だそう。

我々の時代には、偏差値が65くらいを超えれば進学校というイメージがあったので、少し驚いた。
その理論で言うなら、九州には進学校は久留米附設とラ・サールの2校しかないことになる。ちなみに、この2校の高校偏差値は78とか79で灘、開成と同じくらい。

九州でトップレベルの公立高校だと東大合格者数がどうなっているのか調べてみたら、以下の通り。

修猷館高校(福岡) 11人 54位 
熊本高校(熊本)  18人 32位
上野丘高校(大分) 18人 32位

福岡でのトップ公立校でも全国54位、九州で一番のトップ公立校である熊本高校も32位でギリギリ進学校ではないということになる。なかなかに厳しい。

小説で「進学校に通っている生徒」という表現を使うことがある。
自分の思惑としては、なんとなく中堅都市でトップの高校あたり(高校偏差値65くらい)を考えていたのだが、今はそういう高校は「進学校」ではないということか。自分の出身高校は、余裕で「進学校」ではなかったということか。

このことは、小説内に「進学校」と書いたら、「メチャメチャ勉強できる学校じゃん」と読者を印象づけさせてしまうということになってしまう、ということだ。
つまり、「作者の私が意図しなかった印象を読者に植えつけてしまう」可能性があるということだ。

私の意図としては、偏差値65程度であれば進学校と言っても、勉強する人もいるが、勉強以外に興味を持っている人も多くいるイメージだった。いちおう勉強はできるが、自分なりに青春を楽しみたいし、勉強もしなければいけないみたいな……少し勉強ができる平凡な高校生といったところか。

ところが、昨今の常識で言えば、「進学校」と書いてしまったら、開成とか灘、もしくは麻布、渋幕、聖光学院などの「メチャメチャ勉強できる学校の生徒」で、ほとんどの人間が東京一工や国立医学部を目指している印象になる。そしてそのイメージをそのまま読者に与えてしまうのだ。「進学校」と書かれていたら「すっげー勉強できる学校じゃん」みたいな。
そうなってくると、必然的に人物造形を変えなければならなくなる。

そこでふと湧いた疑問。
例えば修猷館高校、熊本高校などは「進学校」ではなく、なんと表現すればいいのだろうか。
まさか「自称進学校」ではないだろうし、敢えて言うなら「公立トップ校」という表現か。

うーん、「公立トップ校」なんて表現は小説にはそぐわないなあ。(●´ω`●)







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