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気づきまでの思考と感情に沿う①~両親への執着の手放し~



本当に、私はなぜ、こんなに両親に拘るのだろうと思いました。
辛い記憶のほうが多い両親との関係のはずなのに、なぜかいつまでも、どこかに見えない温もりがあるはずと信じて、どこにあるのだろうと探し求めてしまう。
宗教に入信する前の両親の記憶や、実家での暮らしの記憶が、身体記憶、脳内記憶としてあるのでしょうか。私は...あるような気もしますが、覚えてはおらず...わかりません。

私の飛躍した思考は、両親への執着だと思いました。
気持ちが両親へ傾き過ぎて、相手(両親)の課題まで、自分がなんとか出来ないものか...と、そんなふうに思ってしまいました。
そしてそれも、両親のためを思う気持ちのようで、
深くよく考えると、結局は、私の主観で、私には本来の姿の理想の両親がいると思い描き、今の両親が変われば(本来の姿に戻れば)、私の気持ちを理解してくれるかもしれない、理解してくれるはずという期待と、気持ちを理解してくれるならば好き、受け入れる、という条件つきの愛情を押し付ける気持ち。
両親に気持ちを理解してほしいという、自分の承認欲求を満たしたい、という気持ち。両親をコントロールしたいというような気持ち。
両親への気持ちは、結局、自分のためでした。
私の不足であり、未完了を感じ続けてきた事に対する渇望する思いが、心の奥底にあったからだ、と思いました。こんな事を思う程に、私は、両親に執着してしまっていました。
どうしようもない、エゴでした。
両親の立場や気持ちなど考えずに、私は我を忘れて、ただただ失ってしまった愛情を取り戻したくて、親子としてどうしても心と心で愛情を交換したくて、愛情を感じたくて、求めて、そして叶う事はなく、満たされなくて、どうしてどうして、と両親に縋るような思い。
両親への気持ちが傾き過ぎて、どうしようもなく、私1人の身勝手なわがままな気持ちに傾き、陥ってしまっていました。
こんな自分に気づいた瞬間、ショックで呆然とし、また大きく落胆しました。

自分に寄り添いました。
そんなに思う程に、あの頃辛かったんだもんねと。
本当に、何度も何度も伝えても、両親に自分の気持ちが届かず、求めても理解を得られず、何度肩を落として、落胆した事か...。私にも人格、人権があるのに、否定され続け、なんとか自分で自分を守りながら耐えていた日々。ずっと、ずっと、辛かったんだもんねと。本当に...本当に...苦しかったと思う...と。人と人として向き合って、話しをきちんと聞いて、気持ちをわかってほしかったよね...、わかろうとしてほしかったよね...。当時を思い出して、自分で自分に寄り添っていました。


そして、時間をかけて、でもね、これは、もう、手放さないとね、と自分で自分に言いました。
そして本当に、両親への気持ちを手放さない限り、きっと私はずっと探し求める理想の両親への気持ちに引っ張られ、執着し続け、苦しいままだと思いました。
もう、今までの慣れた生き方の自分、両親との関係に囚われて嘆く自分から、変えていこう、と思いました。
もう、現実を見て、生きる事だと思いました。
ありのままの現実を感じる生き方、感じた事を素直に表現する生き方をしたいと思いました。
あまり深く考え過ぎないで、気持ちを素直に表現して生きる。
両親の事は、考えないで、生きようと思いました。
愛と感謝の気持ちは静かに心に持って、考えないで、過ごす。両親は両親。私は私。と思いました。

私の事は、私の気持ちは、私がわかっていればいい。
私の事は、私が1番大事にしていけばいい。
そう思いました。
そして、私は自分と、今ある幸せに感謝して、愛して、大事にして、もう私自身が傾かず、ありのままの自分軸で生きよう、と思いました。

数日後、気持ちも平常になっていました。
そして、穏やかな気持ちで、この前は考え過ぎてしまったな...と、驚くくらい自分の軸が傾いてしまったな...と、考えていました。
そして、宗教バイアスが掛かっている両親の、ある一部分に、親心、という物が、少しだけ存在するのかな...と思いました。
宗教バイアスが掛かりながらも、時々、所々、人間らしい、親心もある両親なのかな...、と思いました。
宗教への強い信仰心が両親を形作る大部分だけど、その極一部に、親心が残っている、それが、数年前のあの父親の言葉なのかな...  と、そう思いました。
そうしたら、
宗教バイアスがある両親、ない両親に関わらず...、
今の両親が現実の両親なんだと、受け入れて、私は私が思う気持ちを伝えたら良いのかな...、と思いました。
そしたら、伝わる伝わらないを、気にせずに、私が連絡をしたいと思ったらする。
何の見返りも求めずに。何も期待せずに。
わかってくれなくてもいいから、伝えたい事は、伝えたい時に伝えたらいいのか、と思いました。

すると突然、急に、自分の中から問いかけられました。
「両親に何でも言えるの?
わかってくれなくてもいいなら、言わなくても一緒じゃない?言うと言わないとで何か違うの?
言う事で傷つけるなら、言わない優しさもあるよね?」と。
私は、「伝える内容は選ぶと思います。相手(両親)が傷つく事や、言葉を、敢えて伝えるという事はしません。それなら何も言わないです。
でも、自分の気持ちは大切にしたいし、これからそうしていくと決めました。だから、必要時に、私は自分をしっかり守るための発言ははっきりとするし、自分の気持ちを、相手に誤解なく、正しく伝える努力はしていこうと思いました。」と、自分に敬語で答えていました。
いきなり始まった、短くても、大事な、自問自答に思いました。
急に内側から声が聞こえたように感じて、すぐに書き留めていました。



現実を見て生きよう、と思いました。
両親との、どうにもならない関係、どうにもならない苦悩や諦めの気持ちを越えて、私にとって本当の意味での、親離れ、をして生きる。これからだ、と思いました。
それぞれの生き方、気持ちを尊重した生き方。そういう今の現実を見て、私は私の人生を、日々生きていこう、と思いました。
そうして生きたその先に、本当の意味での、私が生まれた意味と、両親への無条件の愛と、感謝を感じる瞬間がきっとあるような気がしました。
今から先の事はわからないから、いつも思うように、先の事は、大きな流れを信頼して、委ねて任せていると、自分の心に、正直に従うだけだと思いました。
だから、信じて、今を見て、ただ今を生きればいい。
私だけは、どんな私でも、愛して許して、ニュートラルに生きていこうと思いました。
まわりの人に感謝して、私もまわりの人に優しく、愛と感謝を巡らせながら生きよう、と思いました。



思った事は本心です。
本当に、心からそう思いました。
ただ、今までの向き合いで、何回も経験してきた、わかると、わかった気になるは違う。
私は、頭で思考して、わかろうわかろうと、自分に言い聞かせていて、この時、まだ、わかった気、だったと思います。




やさしさで溢れるように/JUJU



(続きます)

お読み頂き、ありがとうございました。



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