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元うつ病による「人間失格」考察

「人間失格」は、言わずと知れた日本文学史上の傑作だが、文学の粋を超え、数々のネガティブ人間を救ってきた(?)作品でもある。

そんなネガティブ人間の聖書、人間失格について、周りに溶け込めず、うつ病にかかり、そこそこにひねくれた人生を送ってきた僕がグダグダ紹介していく。


太宰治とは?

人間失格を書いたのは太宰治。「走れメロス」で有名な、言わずと知れた文豪であるが、彼の人生をザックリと紹介する。

太宰は1909年、青森に生まれた。実家は地元屈指の名家で、一見恵まれた家庭で育ったが、10代後半から堕落を極め、遂には心中を図る。しかし生き延び、そこから小説家として成功を収めるも、38歳で愛人と心中する。

そして人間失格は、そんな太宰が自身の20代後半までの人生を綴った、いわゆる「私小説」にあたる。そして、堕落した自分の生涯を見せつけながら、その中で私たちが矛盾と欺瞞に満ちた人間であることを暗示しまくる、ハッキリ言って最低の作品であろう。しかし、心の底では彼と同じようにひねくれている人間には、熱烈に共感できるものがあり、ある種の救いになっていることも事実なのだ。


太宰治はなぜひねくれたか?

太宰治とは、一体どういう人間だったのか。極度のひねくれ者と言ってしまえばそれまでなので、別の言葉を使う。彼は、”父性不信者”である。

まず、”父性”とは何かを説明する。これは母性と対をなす概念である。母性が人を包み込み、守る役割を果たすなら、父性は、人を外の世界へ引っ張り出し、社会の一員としての活動力を与える役割を果たす。

父性、母性は、人間のもっとも根本的な欲求であり、人間社会を存続するための柱であり、両者共に人間にはなくてはならないものだ。

人間は生まれてから大人になるまでのタイミングで、基本的に、父親から父性を、母親から母性を獲得する。父親から社会のなんたるかを教わり、母親に癒しと優しさを教えてもらうのだ。

このどちらかの欲求が不足している、または恐怖を伴うような過剰なものを与えられた人間は、何かしら精神的に歪みが生じるとされる。

太宰は、大人になる前の通過儀礼である、父性の獲得に徹底的に失敗した人間であり、だからこそあれだけひねくれてしまった。これが僕の結論だ。


父の存在

彼が父性の獲得に失敗した理由、言い換えれば極度のひねくれ者になり、社会不適合者になった理由は、彼の父親にある。

先ほど、「父性は父親を通して獲得する」と言ったが、太宰の父親は、社会で伸び伸びと活躍する人間を育てる上において、まさに最悪の父親であるのだ。

少し話が逸れるが、最近僕が読んだ中で気に入った本に、「父滅の刃」というのがある。

作者は「アウトプット大全」で有名な、精神科医の樺沢紫苑。実は彼は映画批評家としても活躍しており、ビジネスコーナーの席巻している裏で、こっそり出したのがこの本である。

内容は、現代のサブカルチャーの中に、父性がどんどん無くなってきた。それに伴い、父の在り方も確実に変化してきた...って感じの内容だ。

見た目は分厚いものの、ライトでメチャクチャ面白いので、映画やアニメに興味がある人は絶対に読んでほしい。映画の話も面白いのだが、それ以上に僕の目を引いたのが、”精神疾患になっている子供の父親にありがちなパターン”についての話である。

彼が例として挙げたのは、以下のような父親たちである。

1.Very Strong Father

2.Weak Father

3.Ordinary Father

一番最初のVery Strong Fatherは納得だろう。強過ぎる父親。この大学にいけ、この企業に行け、と強く迫り続ける父親のもとで育った子供は、常にビクビクしてしまうようになる。サブカルチャーで言えば、エヴァンゲリオンのゲンドウが典型だ。そしてシンジは、周囲からの要求に過敏な反応を見せるキャラクターだ。

Weak Fatherは、弱く、頼りない父親。コレは明らかに、父親としての役割を果たしていない。

Ordinary Father、つまり凡庸で、仕事はちゃんとしているが、どこにでもいるような入れ替え可能な父親。これが一番問題である。(僕の父親はまさしくこのタイプである。詳しくは以下の記事を参照)


父としての責務とは?

父親の責務(つまり父性)について、もう少し触れよう。父の責務は何か。それは、

カッコいいこと

である。

ここでの”カッコいい”は、顔がカッコいいと言う意味ではなく、生き様の問題だ。

自分独自の哲学を持ち続け、社会の理不尽に対して一矢報いようと励み続けている。厄介な問題に対して、我こそは!と勇気を持って手を上げる。自分を高めようと、日々学び、鍛え続けている。ただ一つの何かを愛し続け、その結果数万人に一人のレベルの特技がある。などなど、何だかんだで子供に慕われるような父でなければならない。(以下の記事を参照)

社会の空気やシステムに服従し続け、服従できない人間を見捨て、生き様も何もない。そんな凡庸な父親は、父親としての責務を果たしてはいない。

そんな凡庸な父親の中でも(これはもはや主観だが)最悪なのが、”偽善の権力者タイプ”である。

利権に縋りつき、特に大した仕事などしていないくせに富と名誉を得ている不条理な存在。現代でも政治家や電力会社などに存在する偽善の父。

太宰治の父親も、そういった偽善の権力者であった。地元屈指の有力者で、周囲から殿様と呼ばれていたが、その富は周囲の人間から搾取したものに過ぎなかった。

太宰の初期の作品に、「猿ヶ島」と言う短編がある。ここに太宰が登場人物の猿を通して自分の父親を批判している場面がある。

あれは地主と言って、自分もまた労働しているとしじゅう弁明ばかりしている小胆者だが、おれはあのお姿を見ると、鼻筋づたいに虱が這って歩いているようなもどかしさを覚える。

太宰治がなぜ、あそこまで捻くれ、世間を嘲笑うニヒリストになったのか。それは、自らの生き様を持ってして子供の生きる道標となるべき父親によって与えられたものが、よりにもよってこの世の悪、それも権力を持っているが故に、悪として世の中に断罪されることのない真に醜悪な悪の道であったからだ。

太宰が父親を心底嫌っていた決定的な箇所がある。人間失格のラスト、一人の男が太宰治の分身である葉蔵と交流のあったバアのマダムの元を尋ねる。マダムはこう言った。

「それから十年、とすると、もう亡くなっているかも知れないね。これは、あなたへのお礼のつもりで送ってよこしたのでしょう。多少、誇張して書いているようなところもあるけど、しかし、あなたも、相当ひどい被害をこうむったようですね。もし、これが全部事実だったら、そうして僕がこのひとの友人だったら、やっぱり脳病院に連れて行きたくなったかも知れない」
「あのひとのお父さんが悪いのですよ」

他にも、こんなシーンがある。

「シゲちゃんは、いったい、神様に何をおねだりしたいの?」
 自分は、何気無さそうに話頭を転じました。
「シゲ子はね、シゲ子の本当のお父ちゃんがほしいの」
 ぎょっとして、くらくら目まいしました。敵。自分がシゲ子の敵なのか、シゲ子が自分の敵なのか、とにかく、ここにも自分をおびやかすおそろしい大人がいたのだ、他人、不可解な他人、秘密だらけの他人、シゲ子の顔が、にわかにそのように見えて来ました。
 シゲ子だけは、と思っていたのに、やはり、この者も、あの「不意に虻あぶを叩き殺す牛のしっぽ」を持っていたのでした。自分は、それ以来、シゲ子にさえおどおどしなければならなくなりました。

居候先の幼女、シゲ子との会話。(シゲ子の家は母子家庭である)

「お父さんが欲しい」

母子家庭の子供がそう無邪気に答えただけで、葉蔵はくらくら目眩していることから、父親に対しての相当な嫌悪感を抱いていたことが窺える。


”偽善的父”の根本問題

父親を心の底から憎み、恐れている太宰だが、この偽善的父の存在の責任を父親一人に帰属していないことが予想できる。

その証拠と言える一節が、人間失格の最初のほうにある。

自分は東北の田舎に生れましたので、汽車をはじめて見たのは、よほど大きくなってからでした。自分は停車場のブリッジを、上って、降りて、そうしてそれが線路をまたぎ越えるために造られたものだという事には全然気づかず、ただそれは停車場の構内を外国の遊戯場みたいに、複雑に楽しく、ハイカラにするためにのみ、設備せられてあるものだとばかり思っていました。しかも、かなり永い間そう思っていたのです。ブリッジの上ったり降りたりは、自分にはむしろ、ずいぶん垢抜あかぬけのした遊戯で、それは鉄道のサーヴィスの中でも、最も気のきいたサーヴィスの一つだと思っていたのですが、のちにそれはただ旅客が線路をまたぎ越えるための頗る実利的な階段に過ぎないのを発見して、にわかに興が覚めました。
 また、自分は子供の頃、絵本で地下鉄道というものを見て、これもやはり、実利的な必要から案出せられたものではなく、地上の車に乗るよりは、地下の車に乗ったほうが風がわりで面白い遊びだから、とばかり思っていました。
 自分は子供の頃から病弱で、よく寝込みましたが、寝ながら、敷布、枕のカヴァ、掛蒲団のカヴァを、つくづく、つまらない装飾だと思い、それが案外に実用品だった事を、二十歳ちかくになってわかって、人間のつましさに暗然とし、悲しい思いをしました。

僕が最初に人間失格を呼んだ時には、こんな文章を書く意味がわからなかった。単なる余興と思っていたものが、利便性を考慮して作られたのがわかってガッカリ...ってそれがどうした。

しかし今になれば、この最初の部分で太宰が、現代社会の問題の根源が、畢竟”利便性の追及”に端を発することを示唆していることがわかる。

父親のような偽善者が生まれたのはなぜか。それは資本主義や国会といったシステムを人間たちが作ったからだ。なぜ作ったか。それはその方が便利だったからだ。(否、そっちの方が便利だとその時はそう思ったからだ)

システムを作ることはすなわち、数字や学歴などの表面しか見ないことを意味する。よって父のような中身はないが地位は高い人間が出てくる。と言った具合に、父のような不条理な存在は、利便性を求め、自然や自分より下の人間を含むあらゆるものに対し支配を広げて便利に使う。という人間の趨勢の結果に過ぎないことを示唆していることは間違いないだろう。

とまあ、こんな感じで批評をしてみた。太宰作品にはまだまだ深い味わいがあり、この記事の内容はあくまで彼の凄さの一部に過ぎない。これからも彼の作品を愛読していこうと思う。


おすすめ記事をいくつか。

僕の記事で圧倒的人気を誇る。全く知らないって人も是非!偉大さ云々の以前に、ビートルズは最高に”楽しい”バンドです。

教育に関しての対案を色々と。

以上、最後まで呼んでくれてありがとうございました!

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