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柳田国男のアカデミズム批判の射程は?

 柳田国男のテキストを貫く重要なキーワードのひとつに「既存の学問領域やその在り方への疑問」がある。そのため、研究機関内(アカデミズム)と外(在野)の対立という文脈から柳田のアカデミズムへの批判やその学問の在野性の強調という面を論じた文章も多い。(例えば、『近代日本の民間学』鹿野政直(岩波新書, 1983年))

 しかしながら、この取り上げ方は厳密に言うと正しくない部分もある。例えば、『吉野作造と柳田国男 大正デモクラシーが生んだ「在野の精神」』田澤晴子(ミネルヴァ書房, 2018年)では、柳田のアカデミズム批判が東京帝国大学の歴史学を念頭に置いたものであり、京都帝国大学の当時起こりつつあった中世史研究の領域とは共通点が多かったと指摘されている。アカデミズムの中でも柳田の関心と共通することを研究しているところもあり、アカデミズムのすべてを批判していたわけではないようだ。同じように、私は慶応義塾大学の言語研究の領域とも共通点が多かったと考えている。以下の記事でも紹介したように、柳田は1924年から慶応義塾大学文学部の講師をつとめており、当時文学部に在籍していた齋藤吉彦に期待を寄せている。

この記事で紹介した齋藤の追悼本である『那妣久祁牟里』(なびくけむりり)の「あるグランメリアン」佐藤勝熊に、「部屋中に散らかしたフランスの方言地図に囲まれて勉強していた齋藤君」とあり、齋藤がフランスの方言分布に関心を持っていたことが分かる。齋藤が「方言地図に囲まれて勉強」していたは、おそらくフランスの言語地理学のことであろうと思われる。『柳田国男のスイス 渡欧体験と一国民俗学』岡田民夫(森話社, 2013年)によると、柳田はフランス言語地理学を受容してその影響を受けながらも、独自の言語学を目指していたという。この本から柳田がフランス言語地理学に関心を持ちそれを自身の学問に応用しようとしていたことが分かるが、おそらくこの点が柳田が齋藤に期待をしていた理由であろう。柳田と齋藤の交流は、柳田の関心と当時の慶應義塾大学での研究領域の一部に重なる部分があったことのひとつの例なのだろうか。

 柳田は1944年に慶應義塾大学に言語学関係の蔵書を寄贈しており、現在も柳田文庫として同大学言語文化研究所に保存されている。(注1)この例からも柳田と齋藤の関係だけでなく、柳田の関心と当時の慶應義塾大学の研究領域は重なる部分があったと思われる。

(注1)Google booksで『柳田国男方言文庫目録』がウェブで閲覧できるので、それを参照した。


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