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柳田国男・佐々木喜善宛ての書簡に登場する○○君の正体②―佐々木喜善日記に回答あり

 先日、『佐々木喜善全集』第4巻(遠野市立博物館、2003年)を始めて閲覧した。この全集には、佐々木喜善の書簡、日記が収録されていることは以前から知っていたが、実際に確認してみて喜善の日記の凄さが分かった。喜善の日記は1904年から喜善が亡くなる1933年までほぼ毎日書かれており、喜善の伝記的な事実だけでなく、初期の民俗学、郷土研究者の交流やそのネットワーク、地域で活動していた民俗学研究者の実態、民俗学関連の出版の裏側、在野研究者の苦労など様々な観点から読むことができる資料である。『佐々木喜善全集』は国会図書館にあるが、第4巻だけ所蔵がないようなのは残念である。

 この日記には、当時の民俗学研究者の交流の裏側が記載されているのも興味深い点のひとつである。一例を挙げると、かなり前に投稿した以下の記事の回答も記載されていた。私は以下の記事で柳田国男が喜善に送付した葉書の伏字部分は本山桂川ではないかと推測した。該当部分を再掲しておきたい。

一二九 (昭和二年九月十九日 岩手県上閉伊郡土淵村 佐々木喜善様 絵はがき) ○○君は色々よくないことをしたので在京の仲間から見放されて居る人なるに何故そんな人と協同せられ候や心もとなく候 (読みやすいように一部を現代語にあらためた。)
『定本柳田國男集』別巻4より引用

この書簡が喜善のもとに届いたと思われる時期の日記を確認すると、昭和2年9月21日の条に「柳田先生から、本山君と協同するのがいけないと云ふ意味の葉書が来る」とある。明らかにこの記述は上記に再掲した柳田の葉書のことである。○○君は本山であったということがわかった。『柳田国男全集 年譜』別巻1(筑摩書房、2019年)の記述の根拠も佐々木喜善の日記にあるのだろうか。

 本山と喜善の間には、深い交流があったことは喜善の日記を確認すると、書簡の発信・来信の多さから一目でわかる。本山と喜善の交流委ついては、礫川全次様のブログの以下の記事でも紹介されている。



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