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柳田国男・佐々木喜善宛ての書簡に登場する○○君の正体

 『定本柳田國男集 別巻4』には多くの柳田国男が送った書簡がのっているが、その中に1927年9月19日に柳田が佐々木喜善宛てに送った絵葉書がある。以下に引用してみよう。

一二九 (昭和二年九月十九日 岩手県上閉伊郡土淵村 佐々木喜善様 絵はがき) ○○君は色々よくないことをしたので在京の仲間から見放されて居る人なるに何故そんな人と協同せられ候や心もとなく候 (読みやすいように一部を現代語にあらためた。)

上に引用した絵葉書の中に登場する「○○君」が明確に誰を指しているのだろうか?先日、私のnoteでも度々紹介している『柳田國男全集 別巻1 年譜』に以下のような記述があるのを発見した。

昭和2年(1927)十二月四日 岡村千秋と早川孝太郎が訪ねてきて話しているところに、中山太郎の案内で佐々木喜善が新居にやってくる。喜善に対し、本山桂川とは付き合わない方がよいと言う。

上記に引用した柳田から喜善に宛てた絵はがきからあまり時間が経過していない時に、柳田は喜善に本山桂川と交流しないほうが良いと言っている。年譜のこの情報の引用元は不明だが、この時期に柳田が本山に対してよい印象を持っていなかったことが伺える。

 本山と喜善は、本山が喜善の没後に遺稿集ともいえる『農民俚譚』を編集していたり、1924年に本山が遠野に住んでいた喜善を訪問したりなど深い交流があったことが分かる。また、柳田は1925年に出版した自身の著書『海南小記』に本山の写真を掲載しているが、本山によると柳田に12枚の写真を貸したが、それらの写真は返却されず、本山はこのことを不満に思っていたようだ。本山は『農民俚譚』の後記に柳田を批判する文章を書いて以来、柳田と疎遠になったというが、それ以前から両者の間には不仲の兆候があったようにみえる。(注1)

 以上のことから、上に引用した柳田から喜善に宛てた絵葉書の中に登場する「○○君」は本山のことを指しているのではないかと推測することができるが、自信はない。特に、柳田の絵葉書の中にある「よくないこと」、「在京の仲間から見放されて居る」が具体的に何を意味しているのかが分からなかったので、今回の推測は根拠にとぼしいように思える。おそらくこれらの詳細が分かれば、「○○君」が何者なのかを推測する手掛かりになるだろう。この件はあくまでひとつの推測にすぎないので、今後の調査の進展次第で十分にくつがえる可能性が高いことを付け加えておきたい。(むしろ、くつがえしていただきたい。)

(注1)本山桂川に関しては、以下の文章を参照した。


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