見出し画像

花田清輝の宮本常一評

 『花田清輝全集』第10巻(講談社、1978年)に「故郷を失わぬ人々」という文章が収録されているが、この文章は花田清輝が『庶民の発見』宮本常一(未来社、1961年)の書評であり、花田の宮本評にもなっている。興味深い文章なので以下に一部を引用してみたい。

 ここには、故郷を失っていない人びとの幸福と不幸とがある。筆者(注:宮本常一)の足跡は、日本全国におよんでいるが、おそらくかれは、かれの故郷の延長線上において、あらゆる事物を観察しているにちがいない。著者が海外にまで足をのばせば、かれの故郷が、国際的規模にまで拡大するだけのことだ。(中略)
 ここでいう「庶民の発見」とは「農民の発見」ということだ。すくなくとも著者は、かれの眼底にあざやかに残っている故郷の農民のすがたを、故郷以外の土地のさまざまな庶民のなかに「発見」しているかのようである。なかんずく、わたしは、著者が、農民のなかにみいだされる非暴力的伝統に注目しているくだりに教えられた。(中略)
 わたしは、同じ問題が、故郷を失っている人びとによっても―どこへ行っても異郷しか「発見」できない人びとによってもとりあげられることを希望したい。
 近代をこえるためには、一度、われわれは、徹底した「異邦人」になる必要があるのではなかろうか。
(筆者の重要であると考えた部分を太字にした。)

宮本が自分の故郷で生活している人びとと同じ伝統を故郷以外の土地にも見出していると指摘している。ここで花田が言いたいことは、宮本が自分の故郷の人びとと故郷以外の人びとの間に地域にとらわれない共通の普遍的な伝統があるということを見つけたということであろう。この評価は鶴見俊輔が宮本の仕事を地域にとらわれない民際的なものとした評価と重なる。『歴史の話 日本史を問いなおす』網野善彦・鶴見俊輔(朝日文庫、2018年)で鶴見は郷土に関して、以下のように述べている。

鶴見 (柳田国男は)「郷土会」をつくって、大正時代に郷土科という科目をつくるんです。(中略)郷土は国家より低い次元のものだと考えるのは間違いなんです。自分の暮らしは国家の枠をこえるわけで、郷土科には面白い見方があるんですね。郷土愛というのは、世界のどこに持っていてもそこが郷土になるわけだから、国家本位、つまり中央政府本位と違うんです。

上記に引用した発言は、1992年の鶴見と網野善彦の対談でなされたものである。興味深いのは、花田が鶴見が評価しているような宮本の民際的な一面をはやい段階で指摘している点である。宮本が民際的なことを考えはじめたのはいつごろからなのだろうか。

よろしければサポートをよろしくお願いいたします。サポートは、研究や調査を進める際に必要な資料、書籍、論文の購入費用にさせていただきます。