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忘れられた『郷土風景』―宮本常一の雑誌『郷土風景』批判

 拙noteでも度々紹介している谷川要史(=久米龍川)(注1)が編集していた雑誌『郷土風景』(後に『郷土芸術』以下より表記を『郷土風景』に統一)だが、『柳田国男の歴史社会学 続・読書空間の近代』佐藤健二(せりか書房, 2015年)では民俗学史の中で民俗学の研究雑誌のひとつとして紹介されている。この本によると、民俗学史を検討した宮本常一の論文でも『郷土風景』に言及されているようなので、『宮本常一著作集1』(未来社, 1968年)に収録されている「日本民俗学関係一覧」を確認すると以下のように紹介されていた。

郷土芸術の会・谷川要史。昭七創刊、民俗芸術と似たものであったが、その内容は民俗芸術に比して、はなはだおとり、資料も確実性を欠く。

『民俗芸術』も民俗学研究の雑誌である。宮本の『郷土風景』に対する評価が『民俗芸術』に対して高くないことが分かる。

 おそらくこの評価は宮本だけでなく当時の民俗学研究者―厳密にいうと柳田国男を中心とした民間伝承の会に関係していた人々―に共通したものであったのではないだろかと思われる。『民俗芸術』は柳田国男、折口信夫などが積極的に論文を投稿していた。『民俗学関係雑誌文献総覧』竹田旦編(国書刊行会, 1978年)と雑誌記事索引データベース「ざっさくプラス」で確認すると、柳田は26件、折口は44件の文章を投稿している。『民俗芸術』は1928年から1932年にかけて通巻46号が発行されていたが、投稿頻度としてはかなり多い方であろう。

 一方で、私が確認した限りでは『郷土風景』への柳田の投稿は第1巻7号の「民族の採集と分類」の1回しか見られない。折口は投稿なしである。以下の記事で紹介したように谷川は、柳田や折口に『郷土風景』への投稿を依頼して引き受けてもらったようだが、両者のこの雑誌への投稿状況を考慮するとあまり良い印象を持っていなかったようである。この評価が現在まで引き継がれているのではないだろうか。

 以上のような評価の問題があったため、『郷土風景』は忘れられてしまったのだろうと考えられる。この問題は今までの民俗学の研究史が狭い意味で考えられていたため、その射程を再検討するという難しい問題にも接続するだろう。(注2)私は昭和前期までの民俗学の研究史はその射程を広くする方がよいと考えているので、まずはこれまであまり言及されてこなかった『郷土風景』という雑誌を力及ばずだが引き続き紹介していきたい。この雑誌は民俗学の研究史の中にどのように位置付けられるかも難しい問題である。

(注1)谷川要史と久米龍川が同一人物であることに関しては、以下の記事で紹介した。

(注2)この問題に関しては以下の記事でも紹介した。


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