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柳田国男「酒もり塩もり」に関するメモ―水平を目指して

 柳田国男『食物と心臓』に収録されている「酒もり塩もり」を最近読んだ。この文章の初出は拙noteでも紹介したことのある宮本常一が発行していた雑誌『口承文学』第12号(1936年3月、この号が最終号である。)である。

 この文章の最後に興味深い記述があるので、以下のように引用してみたい。

(前略)モラフを只卑屈な、相手を威張らせる行為のように解する者の多くなった為であって、たとえ形骸だけでもせよ、東北はまだ以前の面影を留めて居たのである。そうした私はこの古い世の習わしを、少なくとも精神の糧食の上だけには、もう一度復活させて見たいように思って居る。泉州堺の歴史ある湊に住む同志諸君は、此頃頻りに私の原稿をモラヒたいと謂って来る。私は些々たる前代感覚に関する知識と、是に伴なう僅かな意見とを持って居る。それをただ独りで味わって居たところが、身の養いにもならず、不死の薬にはなおならない。少しでも数多くの共に学ぶ人々、即ち東北で謂うモラヒドノを獲得して、もっと立派な人生の事業にして見たいのである。昔は平家の人たちは代々其名乗に盛の字を附けて、一門の繁栄を図り又成功した。浄海入道というが如きムッソリニが出なかったら、もっと栄えたかも知れず、又現に南海の果ての島々では、其後裔というものが今も続いて居る。曾て彼等が期待したような有力なるモラヒが集まって、いつかはこの国に学問知識の大饗宴の開かれる日が来なければ、如何なる個人の刻苦精勤も、なお貪欲の謗りを免れることが出来ないであろう。それ故にモルことは我々の深い楽しみである。「奢る」と誤られざらんことを切望するばかりである。(筆者により現代仮名遣いにあらためた。)

 上記に引用した文章は「モラフ」という言葉の意味がかつては飲食を共同で行うという水平的な意味を含んでいたが、現在では目上の者が目下の者に与えるという垂直的な意味に変化したことを論じた後に述べられている。この変化をふまえて、ここで柳田は「この古い世の習わし(Kamikawa注:飲食を共同で行うという水平的な意味や精神)を、少なくとも精神の糧食の上だけには、もう一度復活させて見たいように思って居る」と述べている。この主張には複数の意味が込められているように読める。

 1つ目は「私は些々たる前代感覚に関する知識と、是に伴なう僅かな意見とを持って居る。それをただ独りで味わって居たところが、身の養いにもならず、不死の薬にはなおならない。少しでも数多くの共に学ぶ人々、即ち東北で謂うモラヒドノを獲得して、もっと立派な人生の事業にして見たい」と記述されているように、民俗学を確立して普及することである。ここで柳田は自分の持っている情報を共有して活用することのできる同志、同志が交流することのできるネットワークの重要性を述べている。そしてこの同志のネットワークは水平的である必要があると柳田は考えていたと思われる。

 引用した部分には「泉州堺の歴史ある湊に住む同志諸君は、此頃頻りに私の原稿をモラヒたいと謂って来る」とも述べられているが、これは宮本を中心とした『口承文学』の同人が柳田に原稿を依頼したのだろう。柳田は自分の目指す民俗学のネットワークをこのような自分の原稿を「モラフ」という垂直的な関係でなく、水平的なネットワークにしたいと考えていたのだろう。ここでは『口承文学』の同人の垂直的な関係性を生産することにつながる精神性を柳田は批判しようとしているように思われる。

 ところで、柳田の考える水平的なネットワークの中に柳田自身も含まれているかどうかは別の興味深い問題ではあるが、ここでは柳田自身もそのネットワークに属しているように思われる。

 柳田は民俗学において各地域を「比較」することが重要であると考えていたが、「立派な人生の事業」にはその方法の確立、普及を含んでいると思われる。これが2つ目の意味である。「ただ独りで味わって居たところが、身の養いにもならず、不死の薬にはなおならない」では、自分の蒐集した情報を自分で使用するのみでは学問にならず、共有することで初めて学問になるということも柳田は言いたいのだろう。

 これは閉じられたコレクションや情報はその人が亡くなると散逸してしまう恐れのある「有限」のものであるが、開かれたコレクションは「不死の薬」を投与されたように個人の死後も継続して使用され続ける個人を超えた「無限」のもの(公共のもの)になるとでも言い換えることもできるだろうか。ここには自分のコレクション(蒐集した情報を含む)を充実させて満足する好事家と自分のコレクションを共有して学問の進展に寄与しようとする研究者という柳田が一貫して持ち続けた二項対立も読み取ることもできるだろう。

 3つ目は民俗学を通した日本の人びとを近代的な共同体に編成しようとするという意味である。以下の記事で紹介したように、柳田は「いつかはこの国に学問知識の大饗宴の開かれる」ことを通して人びとを取り巻く「民俗」を克服して近代化、近代的な共同体を実現することを目標としていた。そのためには、人びと同士の水平的な関係性が必要であると柳田は考えていたのだろう。

 ただし、柳田の言う「近代化」は私たちがイメージするヨーロッパ的な「近代化」とは必ずしも一致しないことに注意したい。引用した箇所以外に「盛るは何の為だったかを考えて見ると、(中略)神霊に供する為」と述べられているので、「モラフ」の共同の飲食は現在の人びとだけでなく、亡くなった人々や祀られている神様も含まれていると考えられる。柳田の近代的な共同体は生者と死者が交わるものを意味していたのだろう。

 「酒もり塩もり」は短いが、柳田の様々な考えを読み取ることができる。柳田はこの文章を『口承文学』に投稿することで、期待していた宮本ら同人たちを啓蒙しようとしていたのだろう。

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