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ピンチをアドリブで乗り越える技 70/100(忘我Ⅱ)

自問自答を繰り返しながら、
アドリブと演技の関係を
追求していってみようと思い立ちました。
100回(?!)連載にて、お送りします。


昨日は、私なりに、3種類あると思われる「忘我の境地」について、一つ目の憑依型をご紹介しました。

また、途中までお話ししましたが、二つ目はアメリカ式であると思います。

これはスイッチの切り替えを得意とするイギリスの役者とは違い、本番の前後の時間帯でも、その役に入り込むような手法で、最近ではよくイヤホンで音楽を聴きながら、周囲をシャットアウトして、その役に没入した状態を保つようにしたりします。

こういった手法から生まれる「忘我の境地」は素晴らしいです。

感情が自然に溢れてきているようにも感じ、キャラクターは実に生き生きとしています。

一つ目の、神のような何か大きな存在が憑依した状態とは少し違いますが、それこそ、その役が乗り移ったように見えることもあるような演技です。

本当に頭が下がるプロセスですし、そこから生まれる結果も驚異的だと思います。

が、危険性も孕んでいます。

役に引っ張られて、家庭内で問題になり破局した、とか聞くじゃないですか?これはこの手法による弊害です。

また、The Witness(7/100参照)を限りなく小さくしている状態でもあるので、共演者としては、あまりこういう状態の役者と戦闘シーンをしたいとは思いません。

あと、内に入ることを求められる手法なので、自慰行為的な独りよがりな演技になりやすいです。(同じく7/100参照)

さらには、このプロセスは非常に繊細なもので、結果が素晴らしい分、上手くいかないということも起こりがちです。

撮影現場で、これが出来ずに、何度も撮り直しをしなくてはいけないということが起こりがちです。

こういった問題点を考えた時に、ハリウッドでも重宝され始めたのが、イギリス式の職人的な演技です。

職人ですので、あらゆるツールを駆使して、どんな時でも合格点以上の演技を繰り出すことが出来ます。制作側としては、取り直しが少なくなるので、こちらの方がコストがかからず嬉しいです。

また、実際、役をそこまで乗り移らせたような演技と、技術と傾聴で実現させている演技と、結果にそこまでの差があるかというと、はっきり言ってあまり重要ではないような気がします。

アメリカ式の弊害を加味しても有り余るほどの魅力は、通常の作品には求められていないのではないでしょうか?

それでも、この源流となるロシア式に関しては、私もこのメソッドが求められると思うシーンの撮影をするときは使います。

舞台の規模では不要だと思うのですが、カメラのレンズというのは、非常に微妙な機微も、敏感にすくい取りますので、この手法のリスクを知りつつも使う必要性のあるときは、ツールとしてこれを使い、それに助けられたことも多いです。

そうです、このメソッドはカメラとの相性が非常に良いんです。

でも、ほとんどの演技は、技術で賄うことが出来ます。もちろん、技術しかない、型通りの、大げさで、リアリティーのない演技は論外です。これは、傾聴を怠っていると、落ちてしまう落とし穴です。(5/100参照)

二つ目の「忘我の境地」が、役に入り込んで、我を忘れる状態だとすると、三つ目は
周囲と一体化することによって到達する忘我
であると、私は自身の実体験をもとに先日気がつきました。

傾聴によって周辺と一体化することが重要なので、イヤホンでシャットアウトしたりはしません。

禅の考えと近いのですが、傾聴によって周囲と一体化しているので、そこには忘我が生まれるような感覚です。仏教用語的には「無我」になるのでしょうか?

以前もご紹介したような気がするのですが、桂枝雀の『茶漬えんま』に登場する、

「私はあなたで、あなたは私」

な状態です。

この状態に到達していると、技術というものは不要です。

セリフも自然と出てきます。

The Witnessも、「離見の見」も適度に出来ていて、重心は低く、呼吸は深く、
「いま、ここ」
をイキイキと生きている状態です。

なかなか、この状態に辿り着くことは難しいです。

でも、64/100でお話ししたような、余裕のあるマインドフルな状態を心がけることで、禅的な境地に辿り着きやすくなることはあると思いますし、ピンチに陥った時こそ、求められる「忘我の境地」なのではないでしょうか?





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