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中高生のためのオンライン哲学対話「生きる意味とは?」

2020/05/22丸亀市飯山総合学習センターにて開催
ファシリテーター 杉原あやの


4名の中高生とオンラインZoomを使って哲学対話を行いました。今回は「生きる意味とは?」をテーマとしました。

早速、参加された皆さんの意見をご紹介したいと思います。



自分のために生きる/他者のために生きる

生きる意味とは、自分のやりたいことができて自分の生を全うすること、そしてちゃんと生きることだ、という意見があり、これに対し「ちゃんと生きるとはどういうことなのだろうか?」という更なる問いかけが別の参加者からありました。

 意見を述べるだけではなく、参加者の意見に対して、別の参加者からの質問や問いかけが起こると、質問を受けた側は、自分が何故そのように考えたのかを再び考え、もう少し説明する機会ができます。

質問を受けた参加者は「ちゃんと生きる」ということがどういう事なのか、もう少し考えて次のように答えられていました。
 周りの人のために、ということもあるけれど、全体を通しては、自分のために生きるということが、ちゃんと生きるということだと思う。そして、自分のしたいことと向き合うことではないかな。

 これを受けて、反対の意見がありました。それは「誰かのために生きること。誰かの役に立つことができること」を生きる意味として考えるというものでした。


死に際に満足できるかどうか

 自分の死ぬ1秒前に自分の人生を振り返り「いい人生だった」とか「後悔のない人生だった」と思えることが生きる意味ではないかという意見がありました。生きている間にゴールすることは無理だから、最期の瞬間に自分がどう思うかでしかないのでは?とのことでした。
 
 この時「自分のゴール」という言葉を使われたのが印象的でした。果たして「自分のゴール」とはどういう意味でしょうか?その後に続く対話のなかでは「ゴール」と共に「目標」という言葉が一緒になって話されました。目標を持つことができ、そこに向かってゴールできるかどうかが生きる意味なのでしょうか。



目標と生きる意味

 私たちにとって「目標」とは一体なんでしょうか?生きる意味の問題とどう関係するのでしょうか?参加者の皆さんの対話は続きます。

・目標は生きている途中で見つけるものだと思う。目標やゴールって最初からそんなに簡単に見つかるものだろうか?自分はこの先どうなって行くのだろうかと思う時、無数の選択肢がある。目標を一つに定めることは難しい。

・目標とは「自分のしたいこと」のことをだと思う。したいことがあるから生きたい。自分のやりたいことのためにどうすればいいのかを考えるから、生きる意味を考えるのかな、と思う。自分のしたいことの中には「他人の役に立つこと」が含まれている。

・自分のやりたいことをやっても、誰かのためにやっても、最期に自分の人生を振り返って良かったと思えるならば、両者ともに何か共通するものがある。

 
 誰かの助けになりたいということが自分の望みである場合、自分の望みを叶えることは、自分のために生きることでもあり、他者のために生きることでもあるのかもしれないと、最初は相反していた意見が参加者同士の対話によって、近づいてきました。

 自分のやりたいことが常に自分にとって分かっていることばかりではない気がします。私の本当にやりたいことは何だろう?私は何がやりたいんだろう?という言葉を聞く機会も多いです。自分のやりたいことだと思って始めたことでも、途中でよく分からなくなることもあります。そういう時にはどう考えらえるでしょうか。

 

生きる意味と時間軸

 生きる意味を考える時に、「自分の最期」という形で直接的ではないものの死を連想させられる意見が出てきました。自分の死を考えたときに、布団に横たわり自分の人生を振り返りながら「ああ良い人生だった」と思えるとしたら良さそうだなと思います。同時に、そんな最期があるとは限らないのではないかとも思います。そこで参加者の皆さんに質問をしてみました。
 例えば、認知症になってしまうことは考えられるかもしれません。人生を振り返る瞬間も無く突然の事故によって死んでしまうこともあるかもしれません。自分の人生を振り返って考える能力を持つことができない障害のある人たちのことはどう考えればよいのでしょうか?「よい人生だった」と考える間も無く、生まれてすぐに死んでしまったり、幼い子供のうちに死んでしまう人たちのことをどう考えればよいのでしょうか?自分の死がどんなふうにあるかなんて、とても自分ではコントロールできないような気がします。

 これらの質問によって参加者の方々から次のような意見がありました。

・最期がどうなるかなんて振り返る時間があるとは思えないから、生きる意味を考えること自体必要なことなんだろうか。

・目標があってそのために頑張ろうと思うから、そのために生きる意味を考えることができると思った。先のことを考えて今の在り方に繋がっていると思う。でもそれは「今より先がある状況」ということを前提にしていると思う。

・自分の最期がゴールだと言えるのは、この先があるって分かってるから言えるのだと思う。時間軸が関係しているのかな。


 自分に将来があり、やりたいこと、目標があり、目標に向かって生きることが生きる意味だとします。けれども、もし仮に、余命宣告されたら、その時生きる意味は失われてしまうのでしょうか?

・余命1ヶ月でも2ヶ月でも考える。死ぬギリギリだからこそ、誰かのために何かしたいと思うし、もしかしたら死を受け止めようとするかもしれない。どちらにしても最期まで自分の意志で生きたい。

・先が限られてるその中でも楽しく生きる。感謝を伝える。先がなくなった中でも最終的な目標を考えられる。


 生きる意味を考える上で、最期の瞬間までしっかりと思考する能力があるということを、前提から外すことはできないでしょうか。自分に思考する能力が無くなることを想像することは難しいことだと思います。そして、あまり考えたくないことなのかもしれません。今はこうして考えながら対話をすることができている私たちですが、実際に、先天的・後天的様々な事情で知的障害を持っている人もいれば、植物状態で横になったままの方がいます。
 生きる意味を考える時、自分にとっての生きる意味と他者が生きている意味を考える時に違いはあるでしょうか?
 目標を持ってそのために頑張っていても、突然身体が不自由になってしまい断念せざるを得なくなったら、生きる意味は失われるでしょうか?
 そもそも役に立つということが生きる意味として欠かせないのでしょうか?人の役に立ちたいと思っている人は沢山いると思います。けれども、ある時何かのアクシデントや病気によって、むしろ誰かの支援がなければ生きていけない状態になることもあるかもしれません。そんな時、私たちは生きる意味を失うでしょうか?

杉原の質問について参加者の方が次のように意見されました。

・[他者が生きる意味を考える対話の中で] 赤ちゃんは自分の生きる意味を自分では考えることはできないと思う。早くに亡くなってしまう人もいると思う。他の人の気持ちの中に少しでも残ったらいいなと思う。自分の赤ちゃんが早くに死んでしまったとしても、そのお母さんは自分の子供のことを、生まれてきてくれてありがとうって思ってるかもしれない。

・認知症になってしまったら自分では生きる意味など考えることができない人もいるかもしれない。その人自身は考えていなくても、周りの人が支援をしたり、この人と一緒に居たいとか・・・。誰かが生きてることが、誰かの生きてる意味になりうるのかなって思う。


生きる意味と他者の存在

「誰かが生きていることが、誰かの生きる意味になるのではないか」という意見を受けて、「人と人との繋がり」と生きる意味の関係性を考える意見も出てきました。
 もしも誰とも繋がりがなかったらならばどうなるのだろうか、と参加者の一人が疑問を投げかけられました。他の参加者の意見としては、人と人との繋がりはリアルで無くても、ネットでも構わないのではないかというものでした。それに対し、ネットを使えない人たちはどうなるのだろうか、という更なる疑問も湧いてきます。

 生きる意味を考える時、他者の存在はどんな風に関係してくるのでしょうか。まだまだ考える余地がありそうです。


問い出し


 後半に差し掛かり、参加者に今までの対話のなかで考えたことを問いの形で提示してもらいました。提示された問いは、すべて参加者が書かれたものそのままです。杉原は、問いを書いていません。参加者の方々に問いを出していただきました。

①生きる意味を考える時に人の存在は必要なのか?
②そもそも生きる意味はあるのか?
③生きる意味を考えて得られるものとは?
④生きる意味を考えることは何に活かせるのか?
⑤意味があるものとは何か?
⑥意味のない生き方はそもそもあるのか?

 投票の結果③と⑥が同票数になり、どうしたものか、杉原が裁断することができず、とっさに両方とも考えようと言ってしまいました。参加者の皆さんは困惑されたのではないかと思います。今思えば反省点が多く、その節は申し訳ありません。



意味がある/ない

 生きる意味の有無や解釈をめぐり対話が続きます。


・意味のない生き方だと考えるのは第三者の主観であって、本人のものではないと思う。意味がある・ないと決定づけたことがないので自分にはよく分からない。

・自分の生きる意味が分からなくなって自殺する人もいるかもしれない。そうすると、自分自ら、意味のない生き方だと考えている場合もあるのではないか。

 自分が生きている意味があるとしっかりと実感している人が、自ら死を選ぶことは考えにくいような気がしますが、実際はどうでしょうか。自分が誰かの役に立っているとか、誰かに必要とされているとか、自分が存在していることがすごく良いことなのだと自信を持って居られる時ばかりではないかもしれません。誰の役にもたてていない、自分は必要とされていない、自分の居場所がない、自分が居ても居なくても何も変わらない、自分がいるせいで人に迷惑をかけている、など悲観的な声は実際に聞こえてきます。人がそのように考えてしまうこともあるのだということも心に留めておきたいと思います。参加者の方から自殺の例が出されましたが、生きる意味が分からなくなるということが持つ危うさを感じました。それと同時に「生きる意味」は私たちが生きている・生きてゆくための重要なテーマであり、時と場合によると、生き死に深く関わる問題なのかもしれません。

 続けて、参加者の意見を紹介します。

・生きる意味が分からなくなるとはどういうことなのかな?
 実際に意味がないから生きる意味が分からなくなるのか?意味がないと解釈するから分からなくなるのか?意味のない生き方をしているから分からなくなるのか?

・生きている意味が分からなくなる時に、目標やゴールが分からないということもあると思う。選択肢が沢山あって、何を選ぶかによって変わってしまう。その選択肢や目標を探している状態であっても、意味がない生き方だとは思わない。その過程も含めて意味のある生き方だと思う。

・植物人間であっても、生きている意味がないとは思わない。生きている間は「生きている」それ自体を意味にする。

 「生きているそのこと自体が意味だ」と捉えるならば、先ほど話題に出てきた自殺の例に関連させることができる内容を含んでいるかもしれません。私たちは普段、生きている以上のことを求めてしまうのかもしれません。


「意味」と「生き方」

「生きる意味とは?」をテーマに対話を続けてきました。そのなかで「生き方」という表現が出てきました。意味と生き方の関係性はどういったものなのでしょうか。そこで、意味は「目的」で、生き方は「手段」ではないかという意見がありました。
 私たちの生き方が、常に何らかの目的のための手段であるとしたら、目的を失うと同時に、それに向かう手段も必要がなくなるでしょうか。私たちは目的を持たなければ生きて行くことができない存在なのでしょうか。もし生きることに「意味(=目的)など無い」と考える人がいたとしたら、そうした人の生き方はどうなるでしょうか。いろいろ考えることができそうな意見です。


まとめ

 対話の最中に次のような意見があったことを記しておきたいと思います。


・誰かの生きる意味を考えること。この人はこのために生きてるだなんて考えること自体が押し付けがましいのではないだろうか。

・自然や動物は意味など考えずただそこに在るのではないか?人間も同じでは?

 これらの意見は、もう少し考えたい大切な意見の一つだと思います。前者の問いについては杉原もまだ考えています。ただ、もしも人が、他者の生きている意味について考えることがあるとしたら、どういう時に考えるでしょうか。杉原のなかでは具体的な例がいくつか思い浮かんでいます。けれども、もっと違う次元の話なのかなとも思います。もう少し詳しく聞くことができれば良かったのですが、それができませんでしたので、安易に書くことは控えたいと思います。

 後者の意見も大切です。「意味などなくただ在る」と考えることで、私たちの生き方はどう変化するでしょうか。もし、他の動物や自然物と異なって人間が意味を考えるとしたら何故でしょうか。沢山考えることができます。このテーマを同じように、真剣に考えた哲学者や宗教家が何人も居たはずです。

 問いを出された方には、是非、この問いを大切に留めておいて欲しいと思います。

 参加者の皆さんが、自分の考えを率直に述べて、また、別の参加者の方の意見に対して異なった意見を投じたり、疑問を投げかけられていても、一切険悪なムードになることはないことにいつも驚かされています。自分の意見に疑問を投げかけられても、その疑問に答えようと誠実に受け答えされている様子からは、テーマについて共に考えようと協力しあっている様子が伺えます。自分が投じた意見に執拗に固執することもなく、見方を変えて様々な別の意見を述べられる様子から、一人の人が柔軟に想像することでいくつもの考え方に思いを及ばせることができるということに改めて気付かされます。他の参加者の意見を聞いて、自分の考え方とは違う考え方を知るということだけではなく、対話を通して、お一人お一人の中で様々な考え方や問いの在り方を芽生えさせることができる場でもあると思います。思いを巡らせる想像力は、思考力の大切な鍵の一つだと思います。

哲学対話の時間は、何らかの答えを出したり、結論を覚えて帰ってもらうことはしません。むしろ、沢山の謎に出会うことになると思います。なぜなのか、それが何なのか分からないということが少しでも分かるとしたら、そこから初めて探求への道が始まります。参加者によって、持って帰る疑問はそれぞれだと思いますが、ご自身の気になった「問い」を大切にしてください。
 また、皆さんと哲学の時間を持てることを楽しみにしております。ご参加いただきありがとうございました。


中高生のためのオンライン哲学対話 -1


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Since2016 香川県多度津町に位置する「Tetugakuya」を拠点地に、哲学対話の会や、哲学読書会など、様々な学びの時間づくりを行っています。最近は出張での開催も増えています。noteでは、哲学対話の記録の一部を掲載しています。読書会の記録はHP上に。

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