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10代のための哲学対話 夏休みの話題から「意味への問い」へそして・・・

2021年07月22日 まんのう町立図書館主催
10代のための哲学対話 
ファシリテーターは、杉原あやのです。

会場は、まんのう町立図書館の会議室ですが、オンラインからも参加できます。オンラインからの参加を受け付けることで、まんのう町市民に限らず、全国から幅広く参加できるようにしています。

参加者は、オンラインが3名、会場3名の計6名でした。


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※プライバシー保護のため、参加者の顔は隠しています。


この日のテーマを何にするのか、参加者と一緒に決めます。遅れてきた参加者も多く、十分に哲学対話の説明が行き渡らなかったり、前半は少しバタバタしていました。

今日話し合いたいテーマは?

参加者から、今日話し合いたいテーマを書き出してもらいました。


・夏休みをどう過ごせば有意義だといえると思いますか?

・同性愛を認めるならば異性同士の友情も認めなければならないのか?

・

推しと恋はどう違うのか?

・人と会話を弾ませるにはどうしたらいいのか?

・世紀は、なぜイエス・キリストの誕生日なのか?

・多くの人と関わらずに、生きていけるか?

参加者が出した問いのなかから、投票で今日話し合いたいテーマを決めます。

皆が一番手を挙げたのは、「夏休みをどう過ごせば有意義だといえると思いますか?」というものでした。

「夏休み」とは、なんとも身近な話題です。


夏休みをどう過ごせば有意義だといえるのか?

遊ぶことと勉強することとどちらが有意義なのか、という話題から始まり、夏休みについて参加者からの率直な意見が出てきます。

「自分が好きなだけ遊んで、たまに勉強するのが楽しい」

「夏休みじゃない時は、遊ぶ時間がいつもより少ない。夏休み中に思いっきり遊ぶのもいいと思う。でも、夏休み中に単語とかを少しでも覚えたら、夏休みが終わった後に楽だと思う。」

有意義ってそもそもどういうこと?

「有意義」とは、そもそもどういうことを指すのか考えてみることになりました。

「ひとりでも、友達とでも自分が楽しいと思えたら有意義。」

「『遊ぶ』とか『勉強する』どっちが有意義かというと、どちらも有意義だと思うけど、有意義にするには、無意味な時間を減らすことだと思う」

「(今まで出てきた意見について)その瞬間を楽しむことを有意義だとする意見が多数派であるように感じるけれども、その瞬間を楽しむ有意義さではなく、後になって振り返ったときに、何か残っていたら有意義だと言えるのではないか」


有意義であると言えるために、一体何が必要なのでしょうか。参加者たちの対話は続きます。

「その瞬間遊ぶだけじゃなく、思い出を作るような人との関わり方ができたらいい。」

「(思い出を作ることに対して)思い出せないことが無意味。『そういえば、何やってたっけ・・・。』ということになったりする。」

「未来のために役に立つことを残すことが有意義。例えば、英語のTOICEで点数を取るなど。」

「有意義とは、自分の得になることをすること。人を助けることが、自分にとっていい思い出になったことがあった。思い出も自分の得になった。」

有意義であるという事について、思い出であるとか、自分にインプットできた英単語や勉強のこと、将来に繋がりそうな資格や試験のことが話題にのぼりました。
今のところ、参加者の意見を聞く限りでは、有意義であるということは、何かが残らなければならないようです。こんな風にも聞いてみたいと思います。記憶に残らないことは、無意味なのでしょうか?有意義かどうかは、記憶に依存するのでしょうか?

記憶に残らないのは無意味?

「結果が重視されるのかな?記憶に残らない時間はある。長い時間勉強してても、その時間のことは忘れてしまう。勉強したことを覚えていなくても、(問題が解けるなど)内容を覚えていたら、結果に繋がる。何か残したいと思って努力した時間そのものは忘れがちになるけど、結果に繋がるから、有意義。」

「有意義」と「意味」

遅れて参加された参加者に、本日のテーマについて再度お伝えしたところ、しばらくして、次のような意見を受けました。

「思い出とか、記憶に残るかとか、あとで振り返ったときに何が残ってるかとか、そういう話が出てるけれど、そんなことはどうでもいい。夏休みなんて、宿題に追われる嫌な思い出しかない。そもそも、学校が宿題を出さなければ、有意義なんじゃないのか。」

学校から夏休みの宿題が出ることについて、何の疑いもなく、対話は進んでいたので、一考の価値ある発言だと思います。「そもそも宿題とは何か」ということも考えてみることができそうです。

参加者の一人が、「有意義」の意味についてGoogleで調べてくれました。書いてあることを読み上げてくれたのですが、どうも、有意義とは「意味があるかどうか」と深く関係しているようです。

普段、何気なく使っている言葉の意味を、もう一度調べ直すことは、大切な作業だと思います。参加者のおかげで、「有意義」という言葉が持つ意味について、改めて辞書を手掛かりにすることができました。「有意義」という言葉が、「意味があること」に置き換わりつつ、対話は進みます。

何が有意義だったのか、意味があるのかどうかは、先にならないと分からず、それは、振り返ることによって分かるのではないか、と考える参加者もいましたが、この意見に対して反対の意見もありました。

「先があるかなんて分からない。明日死ぬかも知れない。いつ死ぬかわからない。先があって、それから振り返って意味を見出すというのは、考えない方がいい。」

「この世に意味があるという前提で話してる。自分で勝手に意味があるって決めつけてる。社会に意味なんてない。」

「世の中に意味がないと思われても、自分の中で自分が意味があるっていうと、自分にとっては意味があることにしていけば、意味って生まれるのかな?」

「意味があるとは、その瞬間にFeel Goodかどうか。Feel Goodなのは、遊ぶこと。(最初のテーマ「夏休みをどう過ごせば有意義か」に関連づけて)」

「夏休みをどうすれば有意義に過ごせるのか」という問いから、「有意義とはどういうことか?」そして、「意味の問題」へと対話は進んで行きました。本当は、社会や世の中に、意味など無いのかもしれないという発言もありつつ、一方で意味を認めるとしたら、極めて主観的なものとしてであったり、私的なFeelingの側にしか無いということでしょうか。私たちが、共有して持っている意味は何も無いのでしょうか。

問いを出す

Google検索で出てきた辞書による「有意義とは、意味があるということ」だという情報を、一旦みんなで共有しながら、時間も中盤に差し掛かってきました。そこで、今までの対話を足がかりに、参加者に、改めて疑問を書き出してもらいました。

ファシリテーターの私も、一つ疑問を書きました。

・物や資格としても残らず、記憶にも残ってないけれども、自分に残るものはあるのか?(ファシリテーター杉原の問い)

・宿題は有意義にできるのか? 

・何をするのが有意義か無意味かは、自分のしたい目的によって変わるんじゃないか?

・縛られた自由の中でいかに自分を自身の記憶に刻めるか、それが有意義なのではないだろうか?

・一生で必要なことは?

・遊びだけが有意義とは言えないんじゃないのか?

・夏休みを過ごしている瞬間の有意義と夏休みが終わった後の有意義は違うものになっているのではないか?


参加者には、この後話し合いたい問いを2つ選んで、2回手をあげてもらいます。投票の結果「一生で必要なことは?」に決まりました。


一生に必要なことは?

「一生に必要なことは何か」について、参加者の皆さんの意見を聞いてみました。

「それは、コミュニケーションをとる力だと思う。人と関わらずに過ごすことは絶対にない。人間関係で悩んで居る人は多いイメージ。自分を分かってもらったり、自分が気持ちよく生きられるには、自分の居場所を作って行ったり・・・。」

「それは、いかに一人で過ごせるのかという能力だと思う。他人とは分かり合えない。他人と関わる限りストレスがある。どれだけ一人で楽しく過ごせるかという能力が大切だと思う。」

「それは、心の支えになる何か。」

このように参加者に「一生に必要なこと」について意見を言ってもらうなかで、次のようなものがありました。

「同じ意志を持って行動してくれる人。友人と言っても自分の考えと合わないことがある。同じ意志を持って居る人たちを、どう利用し、活用するか、ということが一生、必要になってくる能力だと思う。」

これに対し、少し違った意見もありました。

「自分と違う考えを持って居る人がいる方が楽しい。自分と同じ考えを持っている人がいたとしても、自分と似ているからこそ、今のは本音ではないな、などが分かってしまうことがあって・・・。(同族嫌悪?)」

利用し合う人間関係

さて、先ほどまでの意見のなかで、「同じ意志を持った人々を利用する能力」という発言がでてきましたが、それがどういうことなのかもう少し聞いてみたいと思いました。他の参加者からも「同じ意志を持つ人々とは具体的にどう言った存在なのか?」という質問がありました。

これに対する回答は、次のようなものでした。

「同じ意志を持つ人々とは、共依存関係であったり、例えば、テロリスト集団のようなものであったり、地下鉄サリン事件とか、そんなことはどうてもいいけど、オウム真理教のような集団であったり・・・。」

こうした意見について、他の参加者からの疑問は続きます。

「(意見を受けて)その話を聞いていると、何か成し遂げたい目的があるからこそ、そこに同じ意志を持った人々が集まるのではないかと思う。まず『目的』が最初にあると思うけれど、『目的』の方ではなく、同じ意志を持った『仲間』を重視するのは、なぜですか?何か、成し遂げたい目的があるんですか?」

また、ファシリテーターの私も、いくつかの質問を投げかけました。「一生に必要なことが、『同じ意志を持った人々』を利用する能力であるとしたら、その『同じ意志を持った人々』は、あなたと同じように、他人を利用する能力が大切だと考えているから、自分自身も利用されてしまうということはないのでしょうか?」

これに対する更なる回答は、次のようなものです。

「目的というのは、今の所はまだない。『共に助け合う』とか、そういういうことは、『共倒れ』になる。互いが無意識に利用していると思う。でも、一生他人に利用されるのは嫌なので、利用する側の方がいい。他人が何を考えてるかなんて結局分からないのだから、他人の意志など考える必要がなく、大切なのは自分の意志を突き通すこと。」

この意見には、他の参加者も色々と触発されて考えさせられることがあったのではないでしょうか。

私の一つの疑問としては、「他者を使う」ということを考えてみると、他人が何を望んていて、何を考えているのかなど、他者のことをよく知らなければ、他人を使うことができないのではないかということです。つまり、他人のことを考えることができない人が、他人をうまく使うことなどできるだろうか、という疑問です。

また、他の参加者からは、「人に使われること自体は悪いことだとは思わないが、意見を聞いていると『他人を使うこと』それ自体が目的になっているみたい。」というものもありました。

参加者たちの何人かは、「他者を利用する」と言ったときに、何のために使うのかという「目的」が発言のなかから見えてこないことが引っかかっていたようです。

次のような意見も出てきました。

「共に助け合うことは、二人三脚みたいな感じ。どちらかが優れていれば引っ張ってくれる。お互いを利用したいというのは、かけっこ、競争みたい。相手がいることで、負けたくないと、本気を出して走ることができる。そこで能力が発揮されることもあると思う。
目的のために利用されてもいいと思う。自分だけでは、自分の能力を発揮できない。目的が違っても、(自分を)うまく使ってもらったら、自分の能力を発揮できた、ということがあった。」

「利用する、利用される以外の人間関係って無いのかな?」そんな質問もしてみましたが、今回は、特にこれに関する発言はありませんでした。参加者は、それぞれに、違うポイントに関心を寄せているかもしれず、自分のなかで引っかかっていることを考えているかもしれないので、私の問いかけに応答がなくても別に構いません。

最後に

参加者は、お互いのことをどう思っているのでしょうか。そのようなことを特に言う必要はありません。けれども、それぞれに違う生き方をしている参加者同士、何か思うこともあるようで、このような感想がありました。

「自分は平均値をとって、飛び出さず、どう世渡りしていくかを考えていた。綺麗に生活できたら・・・と思っていた。『自分を貫いて生きていく』ということは、自分にはなかったので、すごいなと思った。どうして自分を突き通せるんだろう・・・。」

対話から、人生において重要なのは「目的」なのではないかと気がつかされた、という感想もありました。

発言ができる参加者ばかりではありません。うまく言葉にできないけれども、考え込んでいる人もいます。手元の紙に、対話の中で出てきた単語やキーワード、イラスト、短い自分の感想などを沢山書かれている方もいました。

「もっと上手く言葉にできればいいんだけど・・・」と悩ましそうに言われますが、哲学対話に参加することは好きみたいです。沢山、発言することだけが全てではなくて、その場にいて、自分のなかで、上手く言葉にできないことを持ち帰ろうとしているというその姿勢が、真摯に哲学に向かっていると私は思います。

最後に、雑談の中で、「まず自分が居るということを起点にして、それ以外の他者がいるのだ」と考える参加者もいましたが、「他人がいて、自分が何も無いところから始まって、自分の中に(他者から何かが?)入ってきて、自分があると感じる」という発言もありました。これも面白いテーマだと思います。

「夏休みをどうやったら有意義に過ごせるか」というテーマから、「意味」への問いになり、また「人間同士の在り方」への問いになってきました。

「自分にとって利益があるかどうかが、人の原動力なのだ」と主張する立場はあると思います。実際に、「人材活用」などの言葉がよく聞かれるように、人を「活用すること」や「利用すること」について、また別のテーマで考えることができそうです。

「他者と分かりあうことは出来ない。」という意見に、賛同する参加者は、何人も居たかもしれません。私たちは、結局のところ互いに分かりあうことができないのでしょうか。これ自体も大きなテーマになりそうです。

どのテーマも、何千年も昔から、哲学者たちが考えてきたテーマに関わると思います。哲学対話の場では、同調する必要はありません。他の参加者と違う意見でも、みんなで考えたほうが良いテーマを与えてくれることが多いです。どんな意見であっても、じっくりと考える時間を取りたいと思います。じっくりと考えたいポイントがあれば、ぜひ、「この話題は流さずに、もう少し話しませんか」と気軽に声をかけて欲しいと思います。





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