見出し画像

対話における “アート” と “サイエンス” について

先日、山口周さんの講演を聴いてきた。
そこで語られていたことを、めちゃくちゃ簡潔に紹介すると、ビジネスの意志決定における「アートとサイエンス」の話だ。


アート〟とは、直感的、感覚的なもので、
〝サイエンス〟とは、ロジカルで、きちんと説明がつくもの


そう捉えて貰えれば、まあ大きく間違ってはいない。
これまで日本の多くの企業では、いわゆる〝サイエンス〟の要素がとても重要視されてきた。


● データを揃えろ!

● エビデンスを示せ!

● ロジカルに説明しろ!


というアレである。

しかし、これからは「アート」の側面が大事になるよ。だから、もっと「アート」の価値を認め、意志決定やビジネスモデルの構築、サービスやプロダクトの開発において、アートの比重を増やしていくことが大事だよ。
とまあそんな話だ。

これには私も大賛成である。
心の底から共感できる話だ。


とはいえ、ここで「ビジネスにおける意志決定」の話をしたいのではなくて、「アートとサイエンス」というキーワードを、いささか強引ながら、このnoteのテーマである「対話」あるいは「対話力」という文脈で語ってみたい。


そもそも〝アート〟とは、個人の感覚や感性に帰するものなので、他人が理解できる言葉に置き換えたり、説得力のあるロジックに落とし込むことは難しい。

スティーブ・ジョブズが「美しい」と言えば、それはもうただ美しいのであって、「こんなの美しくない!」と言えば、「どこが、どう・・・」という理屈を超えて、ひたすら「美しくない」のだ。

だからこそ、エンジニアやデザイナーなど現場の開発者たちは死ぬほど苦労させられるのだが、まあ、アートとはそもそもそういう領域である。

一方のサイエンスとは科学的、数学的、論理的、合理的に落とし込めるものなので、自分以外の多くの人に説明しやすく、理解されやすい。


アートとは・・・感覚的、個人的で、説明できず、共有できない。
すわなち「わからない世界」であり、

サイエンスとは・・・科学的、公的で、説明ができ、共有できる。
すなわち「わかる世界」「わかり合える世界」なのだ。


対話力という文脈において、最近、私が特に大事だと感じているのは、まさにこの「わからない世界」「わかり合えない世界」にハシゴをかけるという役割である。

 「わからないもの」を、わからないからと言って否定したり、自分の感性や価値観でジャッジしてしまうのではなく、ジャッジフリーの状態のまま、「わからないもの」をわからないまま一旦受け入れ、そこから対話を構築していく。

これこそ、現代のリーダー、マネジャーに必要な

「アーティスティックな対話力」であり、
「アーティスティックなファシリテーション力」だと思うのだ。

そんな〝アートな対話力〟がなければ、多様な価値観の人と向き合うことはできないし、「多様な価値観」「多様なアート感覚」を仕事に持ち込み、活用することなどできないからだ。

そして、それができないことは、ビジネス上、決定的な問題になってくるという時代なのだ。

山口周さんの話を聞いていれば、ビジネスの領域において〝アートの感覚〟が必要とされてきているのはあきらかで、その状況が加速度的に広がっていくことも間違いないだろう。


もちろん、個人がより〝アートな感性〟を磨くことは重要だろう。

しかし、それと同時に、自分自身はそれほど尖った〝アートな感性〟を持ちあわせていなかったとしても、組織の中、チームの中にある〝アートな感性〟をどんどん引きだし、生かしていくコミュニケーションやマネジメントが必要であることを忘れてはならない。

つまり、自分ではなく、相手の中にある〝アートな感覚〟を引きだすこと。これが〝対話力〟の役割だと私は考えているのだ。

古い価値観や自分の経験則に縛られている人にはなかなか理解しにくいだろうが、極論すると、ビジネスにおける大事な要素、意志決定の重要なカギとなるものは、「自分には理解できない」という〝理解不能なアートの箱〟の中から取り出さなければならない。そういう時代だ。


「それは、いったい何なんだ?」

「まったく理解できないんだけど・・・」

「もっとちゃんと説明しろよ!」


という先に、ある種の正解や突破口、イノベーションのカギがあるということだ。

そんな世界や時代において、自身が〝優れたアーティスト〟になることはもちろん素晴らしい。
しかし、組織や社会という現実の世の中において、もっと、もっと必要なのは、そんな〝優れたアーティスト〟から、さまざまなものを引き出せる〝優れた対話者〟だと私は思っている。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?