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関東モノレールの旅② 前半(江ノ電です!)

まず、お詫びと訂正です。
前回の①のタイトルですが、「東京モノレールの旅」だと、羽田空港モノレール(東京モノレール)の名称を使いつつなぜか「多摩モノレール」の話になってしまいます。
間違えてしまいましたので、これまでの記事のタイトルだけ変更させていただきます。

今回は神奈川県のモノレールである、湘南モノレールの旅。
鎌倉市の北部にある「大船」と観光スポットでもあり南部にある「湘南江の島」という南北に結ぶモノレールだ。

といっても、たった15分の旅なので、今回はモノレールだけでなく鎌倉駅と江の島駅を東西に結ぶ「江ノ電」も同時に描いていこうと思う。
まずは、鎌倉市街地を見て行きながら、江ノ電に乗っていきましょう!!
※モノレール期待の皆様、今回は江ノ電特集ですので、申し訳ありません。
(さらに、前半は鎌倉市を歴史を持って描きます)

いざ戦場の鎌倉へ(今回のテーマ)

みなさんにとって、鎌倉はどういう町でしょうか。
観光都市、買物を楽しめ歴史的な雰囲気もあり寺院やカフェなどに寄りながら鶴岡八幡宮の大きな鳥居も映える。
または海を見るついでに寄る町、散策後に江ノ電に乗り江の島を目指したり海を眺めたり楽しむ。さらにそこから鎌倉を出て茅ヶ崎や大磯にも向かう。

今回は、歴史という視点で鎌倉を描く。特に、鎌倉が発展した基礎は、武士であり、武士の歴史を見ていけば、鎌倉は「戦場」として度々焦土となった場所だ。
現在は観光客が集まる華やかな鎌倉の背景にある「戦場の町・鎌倉」は、血生臭さや炎や霊が見えるかもしれない栄枯盛衰、多くの武士たちが力を伸ばしては滅ぼされてきた場所といえよう。

数多ある観光記事とは趣向を変えて、そういう鎌倉を見てはいかがだろうか。


焦土と化す鎌倉(鎌倉市街地周辺を見ていこう)

新田義貞が生品神社で討幕を決起した理由は、後醍醐天皇や楠木正成らの討幕運動に対処するため軍資金を募る北条氏という鎌倉幕府の指導者との対立であった。高圧的な幕府の使者にそれに苦しむ領民たち、義貞は使者を殺害し幕府は報復しようとする。
対立は激化し幕府による新田討伐の情報も流れ、ついに新田義貞は決起した。

群馬県の太田駅前にある新田義貞像。

最初は150騎ほどの新田軍であったが、越後からの新田一族ら先発隊2000騎、甲斐源氏や信濃源氏ら5000騎、さらに久米川付近で足利尊氏の嫡男・千寿王(足利義詮)と合流したところで20万にもなったとか。
後醍醐天皇が刺激した反北条の動きは、北条に対する恨みと北条無き次の世への期待を持つ鎌倉幕府の御家人たちを揺り動かしていった。
鎌倉街道の上ツ道は、本来は御家人による鎌倉幕府の防衛ラインのために作られたのだが、新田ら反北条勢はそれを利用し南下して鎌倉を攻めんとし、ついに幕府軍と入間川で対峙する。小手指河原の戦いである。

鎌倉が焦土になる前に(幕府成立前史)

まだ原始の頃、鎌倉は柏尾川周辺に人が住むようになり、やがて「鎌倉別」(ヤマトタケルと縁がある?)という豪族が力を持ち、相模国でも特に鎌倉郡が置かれた律令制でも要所として見られていた。
やがて鎌倉党(鎌倉氏)の武士が現れ大庭氏や梶原氏などを名乗り(共通して名に「景」を用いる)、彼らは桓武平氏の一派だったり、相武国造や鎌倉別の子孫とも言われているが、摂関政治の頃に藤原頼通に仕えた平直方が平忠常の乱を鎮静する命を受け鎌倉を本拠地としたときに娘婿の源頼義(前九年合戦と後三年合戦で活躍)に鎌倉を譲り、頼義がそこに戦勝祈願として信仰していた八幡神の文霊を、京都郊外の石清水八幡宮から移し、のちの鶴岡八幡宮ができる。源頼朝がここを拠点とした大きな理由である。

頼義の子孫である源頼朝は鎌倉に入り、平氏を滅ぼし、全国の武家の棟梁という存在となり「鎌倉殿」とも呼ばれるようになった。
この時代の武家の中心地は鎌倉となり、鎌倉は和賀江島という人口の港をつくり日本各地や中国とも交流し、座禅や念仏などの仏教や、中国からの青磁と白磁なども鎌倉の文化として全国にも広がっていく。

武家と商家が建ち並ぶ鎌倉。
#鎌倉歴史文化交流館より撮影。
上は藤沢市の遊行寺の一遍。踊念仏を広めた。
ちなみに、ここに地蔵もあるが、地蔵も念仏信仰と結びつき拡大したよう。
また、鎌倉駅近くにある日蓮の辻説法の場。人通りが多いこの地で日蓮は題目を広めようとした。
#鎌倉歴史文化交流館より

頼朝による粛清例(義経と義高・大姫の聖地巡礼)

華やかな反面、頼朝は反逆分子たちに苛烈な粛清も始めていく。
大きな例が、弟の義経を滅亡させたことだろう。
壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼした立役者である義経はやがて、頼朝ら鎌倉側と対立していく。平泉で滅ぼされた後、捕られた首は鎌倉に送られ、腰越にて梶原景時と和田義盛によって首実検がなされた。

義経と弁慶の首を祀ったとされる白幡神社(小田急江ノ島線「藤沢本町」駅より徒歩2分)。
白旗とは、源氏の旗のことである。

また、時期は遡るが木曽義仲と共闘していたときに人質として義仲の子・義高を預かっていた頼朝だが、義仲と敵対し京都にて滅ぼした後、逃亡する義高を入間川まで追いかけて討った。

狭山市は入間川のほとりにて、まだ少年であった木曽義高は討たれる。
大船駅の東にある常楽寺は北条泰時の墓があるが、その裏山にて、木曽義高と許嫁の大姫(源頼朝と北条政子の長女)の墓が並んである。

北条義時の粛清例(被害者たちへの聖地巡礼)

頼朝の死後、頼朝の妻・政子の舅である北条時政と子の義時が主導権を握ろうと動いていく。
まずは、比企ひき能員よしかず
比企というと、今の埼玉県の比企郡(川島町や吉見町、嵐山町や小川町)であるが、比企掃部常允は源頼朝の父の義朝に仕えていたようで、妻の比企尼は義朝が平治の乱で平清盛に討たれた後、伊豆に流された頼朝に仕送りをするなど面倒を見ていた乳母である。
その子(猶子)の比企能員は北条時政とともに頼朝を支え、頼朝の信任が厚く、長男・頼家は北条政子が鎌倉の比企能員の屋敷で産んだ。頼朝の死後は頼家を支える重臣であった。

埼玉県の武蔵嵐山駅にて。比企尼の娘たちも源氏たちと姻戚関係を結ぶ。
比企尼の娘の河越尼は、河越氏の妻であり、その娘は義経の妻である郷御前。

頼朝の死後、2代目の鎌倉殿となった頼家を支える御家人ら13人の合議制が敷かれるが、内情は「鎌倉殿と(対立する)13人(の利権や背景を抱える武蔵武士たち)」であり、仲良く政治はできないもの。
まず粛清対象として梶原景時。
頼朝からの目付け役として武蔵武士たち諸将を監視していたが、武蔵武士たちにとり内情は「頼朝に讒言を吹聴する厄介者」。
有名なのが義経との対立で、頼朝と義経の不仲の原因とさえも言われている。13人の合議制だけでなく諸将ら33人の連判状をもって、梶原景時は鎌倉より追放、駿河国にて追手か何かと戦闘し自害する。梶原景時の変である。

やっと湘南モノレール付近ですが、モノレール「湘南深沢」とJR横須賀線「北鎌倉」駅間の梶原山が、梶原氏の出自です。
佐助稲荷の北側、大仏切通の奥。鎌倉中央公園があるところ。

その後、頼家の独裁政治に反発する十三人の合議制との板挟みか、頼家は病に倒れ危篤状態に。そこで早速、北条と比企が分裂する。
頼朝の次男(頼家の弟)の実朝を担ぐ北条。頼家の子・一幡を担ぐ比企。
きっかけは頼家の遺領(財産)の分配問題にて亀裂が走り、結局、名越の時政邸に「仏事の相談」と比企能員を呼びつけ、時政らが謀殺。比企一族は屋敷に閉じこもり防戦するが、一幡ともども斬殺・焼死する。比企能員の乱である。
その後、頼家はまさかの危篤状態からの回復。この事件を知り激高した頼家は時政を討つよう命じるが、誰も従う者がなく、頼家は将軍職から伊豆の修善寺に追放され、そこで北条氏らに討たれる。

比企邸であった妙本寺。
比企能員ら一族の墓標には、何やら苔みたいなものがついてましたが、墓を飾っている花のようにも見えました。

次に、畠山重忠。厳密には、これは義時は本位でなく時政によるものですが、北条氏の武蔵武士らへの粛清として記します。
畠山氏は江戸氏・河越氏・豊島氏らと同じ秩父氏の流れで、頼朝挙兵に臣従したときより北条氏とともに戦い、その武勇や教養・立ち振る舞いは「坂東武士のかがみ」と言われてきた。

武蔵嵐山駅から近く、畠山重忠の本拠地である菅谷館。

しかし、北条氏による粛清に巻き込まれる。
清廉潔白にして私情は薄く義に厚い武蔵武士団の棟梁でもある畠山重忠、北条時政が実朝を使い武蔵国務職となり武蔵へ手を伸ばすことに反発する。しかも武蔵は北条が滅ぼした比企との由縁が強い武士が多い。時政との亀裂が深まっていく。
そんな中、頼家の死後に3代目の鎌倉殿となった実朝の妻を迎える宴席にて、畠山重忠の子・重保と平賀朝雅が口論になる。
平賀の妻は、時政と牧の方の娘である。
そのしがらみで、時政は鎌倉は由比ガ浜にて重保を謀殺する。そして、菅谷館にいる重忠に「鎌倉に異変あり、至急参上されたし」と命令し、駆けつける重忠を二俣川にて迎え撃った。畠山重忠の乱だ。

多摩川を越え鎌倉の手前、横浜市にある二俣川。
相鉄線の鶴ヶ峰駅より近くに、畠山重忠最期の地がある。

新田、「いざ鎌倉」へ参る!(幕府滅亡聖地巡礼)

そのような北条が治める武家、恨みも甚だしく大きかろう。
しかしながら、頼朝直系の源氏である最後の3代目鎌倉殿である実朝が殺された後に起きた、幕府存亡の危機である承久の乱では、時政の子である政子と義時らが御家人をまとめ上げ、勝利した。
ついでに、国難とも言われる世界最強のモンゴル軍の襲来である元寇も、北条時宗の指導の下に撃退したのだ。

なぜ、このような北条が最期は散ったのか。
先手を打つ探りに謀略や根回し、そして頼朝以来の容赦のない苛烈な粛清。
それが、時宗の子の貞時からほころびはじめたのだろうか。
貞時は、晩年は酒におぼれ政治を疎んじはじめた。
それを見た子の高時は、悪名高い暗君となり闘犬や田楽という趣味を政治より優先した。貞時のあと、執権(得宗)はたらい回しとなり、リーダーシップはおろか実朝死後の貴族将軍と同じように存在感が失われ、政治は側近どもに放り投げた。

いえ~い♪ 異形のものども、見てる~!?
わしが、TAKATOKIだぜ~!!
#鎌倉歴史文化交流館

入間川に到達した新田義貞軍は、幕府軍の想像以上に迅速であり、布陣せぬまま迎撃戦を強いられた。人数は幕府軍が優勢だったが、やがて河越氏ら武蔵武士らも新田軍に加勢し優勢となり、久米川まで撤退した幕府軍を8000の勢力で奇襲。
主力であった幕府軍の長崎氏と加治氏は撃破され、幕府軍は分倍河原にまで退却。
布陣する中、事態を重く見た幕府は高時の弟・泰家が10余万騎を率いて参上、一気に形成が新田軍に悪くなる。

退却も考えた新田義貞だが、ここに三浦氏一族の大多和義勝ら相模国の武士団8000騎が新田軍に加勢した。
そのころ、足利尊氏が六波羅探題を攻め滅ぼしており、反北条の勢いが増していた。「大多和は幕府軍に駆けつける」という流言も広め油断した幕府軍に対し、大多和2万を先鋒とした4万の新田軍が分倍河原を突撃。幕府軍は壊滅・敗走するが、9万に膨れ上がってきた新田軍は幕府の関所「霞ノ関」(多摩市関戸)で7万の幕府軍を追い打ちにかける。

ついに鎌倉到着には、常陸に下野・上総などの武蔵武士らが集まり数十万以上に膨れ上がっていた。
しかし、鎌倉は「三方を山、一方を海に囲まれた」天然の要害。
さらに、鎌倉中心に行くためには、狭い小径である「切通」を抜けなければならない。頼朝らが作った強固な要塞都市なのだ。

極楽寺坂に大仏切通、化粧坂けわいざか亀ヶ谷かめがやつそして巨福呂こぶくろの切通、朝夷奈あさいなに名越の切通、鎌倉七口と言われる狭い突破口、しかしこれらは防衛ライン。

化粧坂の近くの源氏山公園にて。鎌倉は狭い道が多い。
大仏切通の周辺。この北東の鶴岡八幡宮のやや北西が源氏山公園と化粧坂。
新田軍の主力はまずこの北に集まった。
南の守りである極楽寺坂の手前(江ノ電「極楽寺」駅より撮影)。
化粧坂切通を通れない新田軍本体は、援軍としてここに駆けつけるが…!?

新田義貞は化粧坂に本隊を集め、他の諸将を各切通に配備し、藤沢・腰越・片瀬各所に放火して進撃をはじめるも、それぞれの切通を通過できずことごとく失敗。
あわや、新田軍の討幕は失敗となるか!?

…化粧坂の南にある町、「佐助」。
今回、鎌倉市街地から市役所を経て、湘南モノレール駅「湘南深沢」まで歩いた道にあります。
佐助稲荷神社は、伊豆に流された頼朝(前右兵衛権佐)が「佐殿」と呼ばれていた時代に、夢にて稲荷の神が老婆となり「平家討伐の挙兵を促し決意させた」と、「佐殿を助けた」という由縁で、諸説あるが、成功成就や立身出世の神として信仰を受けていた。
頼朝が挙兵を決心した縁起でつくられた佐助稲荷。そしてその背後の高台、鎌倉市街地を眺め見るような源頼朝像がある源氏山公園は化粧坂のすぐ近くです。
その場所はのち、新田義貞軍により滅ぼされる鎌倉の町を見ていくことになる。諸行無常、盛者必衰、驕れるものも久しからず、猛きものもついには滅びぬ、そういう無常観も感じられます。

江ノ電へ(※やっと江ノ電ですいません)

以上、武士と戦場と焦土の町・鎌倉をお届けいたしました。
まだちょっと続きますが、そろそろメインの江ノ電を見せないとですね。
なお、先ほどの「市街地から東へ歩く」内陸の道の先には、湘南モノレールがありますが、また後半にて描いていきます。
なので、また市街地に戻りましょう。

鶴岡八幡宮周辺。
鎌倉駅西口は市役所に通じる道。
その脇道に「鎌倉歴史文化交流館」がある。
(左手上は文化交流館の庭、右手上は市役所。
左手下は鎌倉市役所から佐助を通り大仏切通にぶつかる通り、
右手下は文化交流館。)
鎌倉駅東口が鶴岡八幡宮を中心として賑わうエリアだが、八幡宮の東の脇道、
鎌倉宮に向かう道に法華堂跡があり、頼朝と義時の墓がある。
さらに周辺には三浦氏の墓も。
右手上が八幡宮の鳥居の東脇道の入り口。
左手上が三浦氏の墓。三浦も後に北条時頼に滅ぼされる(宝治合戦)。
左手下が脇道の様子、右手下が頼朝の墓のふもとにある鎌倉の白旗神社。
東口のマップ。
これから、北条高時が滅び、その後も鎌倉は焦土と化します。

江ノ電の鎌倉駅の隣は、「和田塚」駅。ここは、北条氏によって滅ぼされた和田一族の墓がある。
和田義盛も鎌倉幕府創立の重臣であったが、かねてより望んでいた「上総国」の国司を嘆願するが、北条政子に難色を示され実朝と約束するが失敗する。
その中で、泉親衡が北条氏を倒そうとし、和田義盛の子や甥が参加。
失敗に終わり、和田氏の処分に憤慨した義盛がついに反旗を翻しついに挙兵。鎌倉は大規模な市街戦が展開される。
横山党(八王子周辺)の応援も駆けつけ優勢になるも、将軍の命令に応じた御家人たちの加勢もあり、夕刻までに一族が次々に討たれ、子の義直も討たれ67歳の老いた悲嘆の叫びをあげた義盛も大江氏により遂に討たれる。
戦死した由比ガ浜のこの場所は、今でも和田塚という地名で残っている。

これまで北条氏とともに梶原・比企・畠山を倒してきた和田も、ここで命運が尽きる。
ああ恐ろしや、武家の人間関係…

さて、切通を抜けられぬ新田義貞。
極楽寺坂方面の応援として稲村ケ崎に駆けつけるが、沖合は軍船、道は逆茂木でなかなか通れない。

新田義貞が太刀を捧げた場所。
奥に、三浦半島が見えますね。

膠着している中、ついに未明。新田義貞は稲村ケ崎を通過した!!

太刀を投げ込んだ新田義貞に、神の御加護が!
潮が引き、稲村ケ崎を渡ることに成功したのだ!

10万の新田軍は由比ガ浜に乱入し、鎌倉市街地を蹂躙。ついに北条高時のいる東勝寺を襲撃。北条高時らは切腹し果て、北条氏全滅に成功したのだ。

東勝寺の跡。高時ら一族郎党が自害した「腹切やぐら」は、落石のため立ち入り禁止。なので、また「鎌倉歴史文化交流館」より。
山が多い鎌倉の墓は、山に横穴を掘った石室に墓を置く習慣があった。

やがて、鎌倉は討幕軍の首謀者である後醍醐天皇と足利尊氏らに占領されるが、高時の子の時行に奪い返されては奪い返し。逃げ上手の時行も、3度占領した後は、捕らえられて処刑される(中先代の乱)。
室町幕府ができた後の鎌倉も、鎌倉府が置かれて鎌倉公方(初代足利基氏は尊氏の子)が関東を支配し、鎌倉は再び関東の武士たちの中心地として栄えるが、この鎌倉公方もやがて室町幕府と対立し。
さらに鎌倉公方を補佐する関東管領(上杉氏)とまで対立。敵が多すぎますね。
4代目鎌倉公方足利持氏は室町幕府の軍に押され、海老名へ逃げるが捕まり鎌倉の寺へ幽閉され、自害に追い込まれる(永享の乱)。供養塔は妙本寺の南の方の別願寺にある。
そして、持氏の子の成氏しげうじも室町幕府と関東管領上杉氏と対立。
約30年の享徳の乱の結果、成氏は鎌倉府を茨城県の古河へ移す(古河公方)。室町幕府はそれを許さず、足利政知を送り伊豆に堀越公方とんだ取りこし苦労だよ…をつくる。
関東管領上杉も、鎌倉の扇ガ谷おうぎがやつ山内やまのうちに分裂し…

これ以上は、シャットダウンしましょう。(次回、焦土再び!?)

江ノ電の旅、最後に向かう

どうでしたか、鎌倉を「武士の台頭と争いと戦場と焦土」という視点で紹介してきましたけども。

肝心の江ノ電は、まだ乗って20分ぐらいの稲村ケ崎で終わってますね。
最期に、いや変換ミスだ、「最期」だとまた死んでしまうから良くないですね。もう死とは懲り懲りです、過去の殺伐とした謀略と武力による人々の願いの成就と俺たちの勢力拡大物語は、今後の平和に活かすとしましょう。
最後に、きれいな景色でこの旅の前半を閉じます。

稲村ケ崎から見える江の島の夜景。奥に富士山が見えますね。
江の島のシーキャンドルからの江の島夜景も撮りたかったのですが19時過ぎで(20時に閉まる)お腹も昼ご飯以来でイライラしてたため撮影できません。
19時20分ごろ、江の島シーキャンドルの展望台(20時閉まる)まで遠すぎますし、これから湘南モノレールに乗って、大船から2時間くらいかけて帰ることを考えるとめげてしまいます。

おや、太刀を海に沈めたからでしょうか。
時間が戻っていく…!!

モノレール駅「湘南江の島」の展望台から見る相模湾。うっすら富士山が…?
背後は片瀬山で、次回はここから湘南モノレールを描いていきます。
もう一度戻り、龍ノ口方面へ。
これが有名な、江ノ電名物、「腰越の路面区間」ですね。
そのすぐ近くは龍ノ口で日蓮上人が法難にあった場所。
日蓮の立正安国論が幕府を批判したことで、処刑しようとします。
あ、また血生臭い話か!?
安心してください、穿いて、いや死んでませんよ。
江の島から発した光の衝撃で、刀が折れてしまったらしい。
昔は、可笑しなことがよく起きますね。
境川を超えて、片瀬山をU字に囲みます。
ここを超えると鎌倉市から藤沢市でしょうか。地形も平野部になりそうです。
もう少しで江ノ電終着駅の藤沢駅です。
反対側から片瀬山を眺めます。

モノレールの旅のはずが、江ノ電の旅が中心となりマジすいません。
モノレールも貼ろうとしたのですが、ゴチャゴチャしちゃいそうなので次回にお披露目いたします!!

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