📖夏目漱石『夢十夜』第四夜

作中の「爺じいさん」は仙人か、マジシャン魔術師or手品師か、はたまた単なる狂人なのか？　「手拭を蛇に変えてみせる」と主張したまま、最後には川に潜って出て来なくなってしまう。読者はそんな爺さんに対し、狂気と得体の知れない恐怖を感じるのではないだろうか？

爺さんの思考力は信頼に足るものか？

最初に明言したいことがある。それは、「爺さん」だからといって、【判断力が欠如しているとは限らない】ということである。乱暴な言い方になるが、決して呆ボけているわけではない、と私は思っている。

　爺さんは酒の加減でなかなか赤くなっている。その上顔中つやつやして皺しわと云うほどのものはどこにも見当らない。ただ白い髯ひげをありたけ生やしているから年寄と云う事だけはわかる。自分は子供ながら、この爺さんの年はいくつなんだろうと思った。

『夢十夜』第四夜 青空文庫

ここで注目したいのは、爺さんは若々しい外見をしていることだ。爺さんには皺しわひとつない。もちろん、外見が若いからといって頭が回るとは限らない。が、外見が若々しいという状況証拠があるのだから、爺さんの判断力が欠如していると考えるのは尚早だろう。

とはいえ、酒のせいで頭が鈍ニブっているという可能性も考慮すべきだろう。また、年齢や住所を忘れてしまっているのも、頭が鈍っている証左だろうか。

爺さんは仙人なのか？

引用文を注意深く読むと、爺さんが仙人のように見えてくる。酒飲みで、白い髯を伸ばし、皺ひとつなく、どこか若々しい。まさしく中国の古典でよく見かけるような仙人の特徴ではないか！

「御爺さんはいくつかね」と聞いた。爺さんは頬張ほおばった煮〆にしめを呑のみ込んで、
「いくつか忘れたよ」と澄ましていた。神さんは拭ふいた手を、細い帯の間に挟んで横から爺さんの顔を見て立っていた。爺さんは茶碗ちゃわんのような大きなもので酒をぐいと飲んで、そうして、ふうと長い息を白い髯ひげの間から吹き出した。すると神さんが、
「御爺さんの家うちはどこかね」と聞いた。爺さんは長い息を途中で切って、
「臍へその奥だよ」と云った。

『夢十夜』第四夜 青空文庫

「年齢を忘れてしまっている」という返答も、どこか百年以上生きた仙人の気の利いた嘘のように思えてくる。住所を訊かれても「臍へその奥」と茶化ちゃかしてしまうところも、笑いを誘いつつ、真実を漏らすのを避けているように映る。

爺さんは手拭を蛇に変えられない

これまで爺さんのことを縷々るる語ってきた。だが、前置きとしては長すぎた。ここからは本題の「手拭てぬぐいを蛇に変える魔術マジック」について話そう。

　爺さんが真直まっすぐに柳やなぎの下まで来た。柳の下に子供が三四人いた。爺さんは笑いながら腰から浅黄の手拭てぬぐいを出した。それを肝心綯かんじんよりのように細長く綯よった。そうして地面じびたの真中に置いた。それから手拭の周囲まわりに、大きな丸い輪を描かいた。しまいに肩にかけた箱の中から真鍮しんちゅうで製こしらえた飴屋あめやの笛を出した。
「今にその手拭が蛇になるから、見ておろう。見ておろう」と繰返して云った。
　子供は一生懸命に手拭を見ていた。自分も見ていた。
「見ておろう、見ておろう、好いか」と云いながら爺さんが笛を吹いて、輪の上をぐるぐる廻り出した。自分は手拭ばかり見ていた。けれども手拭はいっこう動かなかった。

『夢十夜』第四夜 青空文庫　引用者太字

芥川龍之介が描きそうな印度インドの蛇使いのように、爺さんは笛を吹いている。そして、吹いている内に、手拭いが蛇になる、とのたまっている。

ただ、手拭には何も起こらない。以降、爺さんは必死になって「蛇になる」と言い続け、果てには川の中に潜ってしまうのだが、それでも手拭が蛇に化けることはなかった。皆様はこの結末をどうご覧になるのだろうか？

狂気の物語か、あるいは……？

爺さんは本当に単なる狂人なのだろうか？　狂人でないとすれば、何が爺さんを駆り立てたのか？

月並みであるが、爺さんは「蛇」に執心していたのではないか、と推理している。

蛇は日本において生と死の象徴として信仰されてきた。また、ギリシャ神話でもそうだ。蛇が巻き付いている”アスクレピオスの杖”は、まさしく医学の象徴として、多くの医療機関のロゴマークとして用いられている。

つまり、蛇は「健康・長寿」の象徴である。爺さんは何とか蛇を召喚しようとしたのだ。だが、蛇はついぞ出なかった。これは爺さんの「死」を意味しているのだろう。（ここでいう「死」は、「肉体の死」と捉えても、「消滅」と捉えても構わない。広義的なものとして考えたい。）

実際、作中でも爺さんは「死んだ」と書かれてはない。川の中に潜ったまま浮かんでこなかっただけである。

橋も舟もないから、ここで休んで箱の中の蛇を見せるだろうと思っていると、爺さんはざぶざぶ河の中へ這入はいり出した。始めは膝くらいの深さであったが、だんだん腰から、胸の方まで水に浸つかって見えなくなる。それでも爺さんは
　「深くなる、夜になる、
　　真直になる」
と唄うたいながら、どこまでも真直に歩いて行った。そうして髯ひげも顔も頭も頭巾ずきんもまるで見えなくなってしまった。
　自分は爺さんが向岸むこうぎしへ上がった時に、蛇を見せるだろうと思って、蘆あしの鳴る所に立って、たった一人いつまでも待っていた。けれども爺さんは、とうとう上がって来なかった。

『夢十夜』第四夜 青空文庫

蛇が出て来なければ延命ができない。そう思えば、爺さんがあれほど必死になるのもよくわかる。待ち受けるのは、肉体の死か、消滅か。多分、そのどちらかだろう。

爺さんの行く末

爺さんの行く末に関しては、ご自由に解釈していただきたい。今までの話を全て消し飛ばして、「単に爺さんがこそこそと隠れてしまった」と解釈してもそれはそれで面白い。

今までの話に従うとすれば、２通りの結末が考えられるだろう。

①　肉体的な死
魔術を使えなくなった仙人や魔術師にはただ死あるのみ。溺死したのかもしれない。蛇はそっぽを向いたのだ。哀れな手品師マジシャンとしての最期であった。

②　消滅
「手拭を蛇に変えられなくなった」のは、魔術全般が使えなくなったせいなのかもしれない。もうこの世界に魔術はない、と誰もが了解してしまったのだ。ゆえに魔術師も仙人もいない。不老長寿・健康の神としての蛇もいなければ、爺さんもいないのだ。（この解釈は、ある種『遠野物語』と連動しているかもしれない。ポイントは【近代人が伝承を信じなくなった】ところにある。）

皆様からも、ぜひ面白い解釈をご教授願いたい。