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棄民について、2019年(エシカル100考、70/100)

棄民について、2019年ほど考えた年はない。

棄民、棄てられた民。自らの窮状を訴える声を上げても、聞かれることのない人びと。そして声を上げる気力すら失われていたり、権利を奪われている人びと。

気候危機による台風被害を放置された千葉や、都心部の出水を防ぐために水没した郊外や、レイプなどの性暴力にあいつづけても司法に看過される被害者や、虐待により精神や生命が壊される子供たちや、罰ゲームのようなハードルを設けられながら子供を産めと圧をかけられる女性や、老後は2,000万ないとねと言い放たれる老人や、雇用関係にあらずとハラスメントから守られない就活生や。

その程度はさまざまながら、これは窮状にある人を棄て置いているのではないか、その声や傷ついた姿を無視しているのではないか、と思うことが多かった。

かろうじて、新天皇の即位パレードが台風被害を配慮して延期されたことぐらいが、あなたたちを忘れてはいない、と大きな声で発せられたメッセージだっただろうか。

2019年には、日本企業にSDGsがよく流行った。ありがたいことにSDGs検定のようなものまであらわれて、鼠色の背広の襟にカラフルな輪っかをつけた御仁が17個のゴールならぬチェックリストを参照して良さげな見てくれを装えて超ビジネスチャンスだね、イノベーションだねと喜ぶ姿をけっこうお見かけした。

言うまでもなく、SDGsの最も大切な理念は「誰一人取り残さない(no one will be left behind)」である。棄民を、見過ごさない。

そして「誰一人取り残さない」が、最も取り残されている。

これはACT SDGsという、SDGsに紐づけて具体的な行動をとる人のコミュニティを運営する松尾沙織さんがおっしゃった言葉で、聞いた時に僕は大変にハッとして、自戒の念ひとしきりだった。

エシカルだサーキュラーエコノミーだダイバーシティ&インクルージョンだと得意気に日々の活動を行っているが、「誰一人取り残さない」ということを意識できているか、何かアクションができているのかと問われれば、我ながら赤面しつつ口ごもらざるをえない。

どうだろうか、みなさんは。

自戒のあまり、12月に開催したダイバーシティ&インクルージョンを推進するNPO法人GEWELのオープンフォーラムでは、『「誰も取り残さない」を取り残さない』という、七面倒くさいセッションを設けてしまった。どうしても必要だと思った。

「誰一人取り残さない」を考え、では「取り残されてしまう人」はどんな人だろうと思った時に、3種の人たちが浮かんできた。

世界のどこか、自分の想像が及ばないところで取り残されている人。

その存在を知られてはいるが、異物扱いされてインクルージョンなきダイバーシティに隔てられている人。

身近にいるのに、それ故に見落とされ埋もれたままにされている人。

だから、フィスチュラという、日本ではほぼ知られず、罹患しても家の中に閉じ込められて人目につかないようにされてしまう病気に苦しむ人へのアクションを行うLaLa Earthの小笠原絢子さんと、知的・精神障害の方たちとフラットに、その人材価値を活かして事業を行うUNROOFの高橋亮彦さんと、長期離職されていた主婦の方などの復職支援やキャリア教育などを行うGEWELでもWarisでも同僚の島谷美奈子さんにご登壇いただいた。

セッションを聴講してくださった方たちが、どのような「取り残されてしまう人」をイメージし、その人たちに想いを馳せてくださったのかは、詳しく感想を聞くことができず、わからない。

でも、お三方のお話しから、何らかの想起をしていただけたはずだと信じている。

棄民について、まずできることは、というよりまずすべきことは、想像をすることなのだと思う。

今もたくさんの場所に、自らの窮状を訴える声を上げても聞かれることのない人びとが、声を上げる気力すら失われていたり、権利を奪われている人びとが、いることを想像し、その人たちの暮らしや気持ちを想像すること。

僕たちは、この想像力を決して失ってはいけないのだと思う。

棄てられた側にしか、そのつらさや苦しさはわからない。足を踏まれた時のことを考えればいい。踏んでいる側は痛くもないが、踏まれた側は痛くて抗議の、ときに怒りの、声を上げる。

その声を無視したり、怒ってばかりだと嘲笑したり、自分の責任だろうと踏みにじることは、あってはならない。

棄民について、2019年ほど考えた年はない。悲しいかな、想像力の欠如が、無視や嘲笑や踏みにじりが横行していたのかもしれないと、そう思うのは悲観的すぎるだろうか。

エリック・A・ポズナー&E・グレン・ワイルという若い経済学者による『ラディカル・マーケット 脱・私有財産の世紀』という本を読んでいる。

序文に引かれたデータによれば、1820年~1970年に国家間の格差は10倍近く拡大し、国内格差は約5分の1減少したらしい。そして1970年を境に逆転し、それ以降は国際格差は約5分の1減り、豊かな国の国内格差は広がっているという。

著者は1970年を「グローバリゼーションが加速し始め、脱植民地化が終わったまさにそのとき」と位置付ける。

たしかに植民地支配というものは70年代くらいに終わりを迎え(いまだその名残は色濃く残っているとしても、地図上で植民地が生まれることは無くなっている)、宗主国から植民地への搾取や抑圧、格差拡大はなくなっている。

が、そこから国内格差が広がっているというのなら、それは外(対植民地)に向けて行っていた搾取や抑圧を内(自国内の人びと)に向けて行うようになったから、ではないか?

植民地主義の内面化、というものが進んで、進みまくって2020年、ということではないか?

日本では6人に1人が相対的貧困状態にあるといわれ、子供の貧困率の高さはジェンダーギャップ指数と同様に世界に誇れる惨状といえる。

内面化された植民地主義によって、棄民が多く生み出されているのだとすれば、僕たちにできることは何だろう?

2019年が終わり、2020年という年があける。

年越しに、屋根のない人がたくさんいるだろう。屋根や暖房があったとしても、不安や悲嘆や恐怖により震える人もいるだろう。

そんな方たちの苦しみなんて、こたつで蜜柑をむいている身にはわからない。他人の痛みなんてわからない。でも精一杯の偽善を発揮して、想像すること、想いを馳せることはできると思う。

2020年も棄民についていろいろと考え続けていますと、言いたくはないなと願いつつ。

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