「魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えるのでもなく、共にそこにある海を知る」(エシカル100考、53/100)
「魚を与えるんじゃなく、魚の釣り方を教るんです」と、ドヤ顔でいう人が嫌いだ。
陳腐すぎて聞き飽きてツマランというのはさておき、「魚の釣り方を教える」って、なんかモノカルチャーっぽくない?
釣り方教えて、ひたすら釣って、乱獲になって資源枯渇しそうじゃない?
潮目が変わったらどうするの?
それでもひたすら釣り続けるみたいな、社会情勢が変わっても計画だからと工事を続ける日本のインパール作戦的ダム行政みたいにならない?
・・・とかね。
エシカルだって同じこと。
エシカルファッションブランドですって言っても、日本(とかいわゆる先進国)や豊かな人や健常者とかが事業や商品企画を考えて、アジア・アフリカ・南アメリカ各国(いわゆる開発途上国)や貧しい人や障がい者がそれにしたがい仕事をして製品を作る構造、どうかな・・と思う。
フェアトレードだったり、雇用を生んで教育の機会を作っていたり、自尊心を育んでいたりするよ、もちろん。だから素晴らしいのは確かだと思う。
でもさ、関係性がフェアになっただけで、下請け構造みたいのは変わらなくない?
寄り添って魚の釣り方を教えて、釣れた魚を正当な対価で取り引きしたとしても、じゃあその魚を蒲鉾とか干物にしようとか、養殖しようとか、別の沖で別の種類を釣ってみようとかにはなりにくいと思う。
フェアトレード・エシカル黎明期にはそれでもいいんだけど、今はもっと世界が緊密になっているんだし、協働しながら、お互いに生きる力を育みあうみたいなことをしていく時代なんじゃないかな。
しっかりと現地側のプロジェクトになっていないと、それは道半ばか、設計ミスなんじゃないかな。
そして、そんなことが出来ているエシカルブランドも、もちろん出てきている。
だから、「魚を与えるんじゃなく、魚の釣り方を教るんです」なんて言う猿面冠者は嫌いだ。
・・・とかね、常日頃より悪口を吐いていたら、シエラレオネといえばこの人となってきている下里夢美氏が、ほぉっと思うTweetをしていた。
「必要なのは一方通行の魚の捕り方ではなく多面的な海の概念」とは、よく言ったものだと思う。
一緒に海を見て、触れて、そこに何があって何ができるのかを共に考えて、実践してみて・・。その一連の協働が、国際開発協力(かたい言葉だなぁ)なんだろう。
そういう協働を経て生まれるエシカルファッションは、生きる力を人に与える存在感、ある種の美しさを持つ。それは商品価値であり、競争力になる。クリエイティビティって、そういうものだと思う。
「魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えるのでもなく、共にそこにある海を知る」。
エシカルも、これからどんどんそんな方向に進むといいな。
下里さんは、以前は短気な小リスみたいだったのに、最近は象のような大きさと亀のような確かさをもった頼もしい人になっていて、、自分も頑張らなきゃ。。
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