セルフカウンセリング

 また、人の記事を引用して記事を書きます。
 この手のことには「人の提灯(ちょうちん)で明かりをとる」などいくつも諺があるところをみると、人のよくやることなのだと思います。って、弁解して、始めます。

自然とセルフカウンセリングのようになっているのかも知れない。
という↑の記事の中の言葉、まさにそうだと思いました。

昔の思い出話やらその時感じたことなどを思いつくまま書いている
ということから始まります。
 コーチングでは、「これからどうしたい」という未来の自分に焦点を当てます。カウンセリングでは、過去にこだわります。原因を見つけたいからです。
 コーチングからみると、後ろ向きにエネルギーを使っています。すくなくともうつむいて足元を見てばかりいる。
 こんなことをしているのは、過去の整理が未来の展望につながるとカウンセリングでは考えるからです。

 過去の整理というときに、忘れてはならないのは、「記憶は、脳の引き出しに入っている日記帳ではない」ということ。
 
 パソコンのファイルと同じような仮想メモリ―であり、思い出したときに無意識のうちに書き直している。それを上書き保存する。

(このことは、『心的外傷と回復』というトラウマ商法を精神科医がやりすぎてぼろが出てしまい、わかった事実。
 幼い頃に父親から性的虐待をされたという女性たちの記憶が、そういう事実がなくても、精神療法家や精神科医の暗示や誘導によって捏造でき、そして、その精神療法後の人生では、性的虐待を受けたことが本人としては疑いようのない体験的事実となってしまうことが発覚した。
『抑圧された記憶の神話:偽りの性的虐待の記憶をめぐって』などを参照)
 
 どういうことかというと、思い出したとき、その過去はすでに現在の自分の解釈から生まれたデータとなっているということ。

 現実よりも悲惨な、救いがたい記憶にもできるし、これから生きるための貴重な糧となる記憶にもできる。

 「なんでも思いつくことを話してください」「とりとめがなくてもいいですよ」「こんなのつまらないかも、なんて全然思わないでいいです」とか、カウンセラーはあの手この手で相手に記憶の読出しをそそのかす。
 そして、思い出した記憶を、カウンセラーの好む(本人としては専門職としての良心に基づき)形や質に書き直させる。
 あいづちやオウム返し、言い換えやまとめ、さらに解釈によって、誘導する。カウンセリングの勉強をした人なら誰でも知っていることです。


 記憶の上書き保存は、カウンセラーにそそのかされないでも、やろうと思えば自分でできる。

何かを書こうとする時、どうしても思い出すという作業が必要になる。
読んだ本のあらすじから、昔住んでいた家のクーラーのにおいまで、ありとあらゆることを普段やっているぼんやり思い出すという感じよりも無自覚ながら、より鮮明に思い出そうとしている。
それによって嫌な記憶を引き出してしまうことももちろんあるが、私の場合はnoteに書くことを目的としていることもあるので、どうにか最後はきれいにおさめたい、着地したいという勝手な自己都合により半ば無理やり良い記憶も同時に引き出している。
それが自然とセルフカウンセリングのようになっているのかも知れない。

「やろうと思えば自分でできる」
と書いたが、実のところ、これが自分でできる人は珍しいです。
 すごく有能な人です。こういう有能な人はカウンセラーにはなりません。
 心理カウンセラーになるのは、わたしのような・・・以下、略。

それによって嫌な記憶を引き出してしまうことももちろんあるが、私の場合はnoteに書くことを目的としていることもあるので、どうにか最後はきれいにおさめたい、着地したいという勝手な自己都合により半ば無理やり良い記憶も同時に引き出している。

 半ば無理やり良い記憶も同時に引き出している。
これは大事だな~と思います。

 カウンセリングでも、コーチングの未来志向、目的論へのこだわりはあるんです。

noteに書くことを目的としていることもあるので

 目的は大事です。
 漫然と思い出すと、いやな記憶に圧倒される。

 そもそも人が鮮烈に覚えているのは、自己の生存を脅かした記憶である。
 脳がそういうふうにできています。
「覚えておかないと、次は命が危ない」という事柄を人は記憶する。

 だから、ふだんは忘れてたというようなことを意識に読み出すにあたっては、何かが出てきたら、それを今度はこれからの人生のエンジンの燃料にするという姿勢が必要となるでしょうね。
 それがないと、思い出したときのいやな気分を書き加えて、さらにいやな記憶として保存してしまう。

 この記事には、
人間は同じことを考え続けるとダメになるようにできている気がする。
というような文もあり、この前後の考察も深いなと思いました。

 セルフカウンセリングを試みたいと思っている人は、
 切り取らず、読み飛ばさず、全部読むと、
 テキストのように役立つと思います。



 それにしても、カウンセリングとは何でしょうか?
 わたしは、メタ認知の能力を開発することだと思っています。
 
 臨死体験として、よくこんな話があります。
 病院の天井まですーっと意識が浮かんで、ベッドに横たわる自分の身体、そして、その自分を取り囲んでいる医師や看護師が見える。
 その人たちの会話が聞こえる。
 さらに、壁を透かして、処置室の外の廊下の長椅子に座って泣いている家族まで見える。
 
 こういうことがメタ認知として起きると、次のようなことになると思います。

不思議なことに会社の同僚なんかを見ているとほとんどの人は悩み事もなく気楽そうに見えるが、noteにいる顔も知らない人たちはなぜか深く人間味のある人たちに思えてくる。
匿名であることで、悪い方に行けば中傷したりするようになる場合もあるかも知れないが、良い方向に行けば勝手に自分の中で素晴らしい人間を作り上げたりもすることもできるのだろう。

実際は会社の同僚も私が素晴らしいと思っているnoteの人たちの一人かも知れない。。

 対人関係を俯瞰している。
 このパラグラフの視点は、完全に地上を一望する鳥の視線です。
 メタ認知とは、鳥瞰ということ。
 
 だから、引用した記事は、セルフカウンセリングとなっていると思います。

 ただ、セルフカウンセリングであっても、完全にセルフ、つまり自分だけで完結することはないと思います。

 セルフカウンセリングした自分を、誰か他者の意識が認める必要があります。(認めるといっても承認という意味ではなく、「見る・聞く」くらいの意味です)
 だから、引用した記事のように、noteの記事として投稿するのはセルフカウンセリングとして必要な手続きを上手に果たしていると思います。
 
 少し話が逸れますが、「私は孤独だった」という話がnoteでもたくさん語られます。
 そういう場合、孤独な誰かの存在が、noteの記事を読んだ別の誰かの意識に像を結んだとき、そのときにやっと「孤独だった」ということが現実になります。
 だから、「孤独であることを誰にも知られない人」は、孤独という自分の現実を持てないということになります。
 
 人間は独りでは、孤独にすらなれない、そんなめんどくさい、猫から見れば「意味わからん」と言われそうな動物だ、とわたしは思っています。

 

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