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【本】猫を棄てる/村上春樹〜誰しもが名もなき物語を紡ぐ

私は“戦争もの”が嫌いだ。
映画、ドラマ、アニメ、小説、遠回しに描かれた絵本ですら、見たくない。

小学生のときだったと思うのだが、戦争の悲惨さを伝える授業の一環として、「火垂るの墓」を観た。

たぶん、あれが最終的な引き金となり、アレルギー反応が出るようになってしまった。頭から恐怖感が離れず、しばらくの間は夜も眠れないし、食欲も失ってしまう。

けれど、「知らなければいけないこと」だという思いはあって、広島にも長崎にも足を運んだことはある。原爆資料館にも入った。目を背けないよう、必死だった。

特に原爆ドームの周りは、独特の雰囲気が漂っていて、今でも忘れられない。

その日は真っ青な空がどこまでも広がった美しい晴天だったのだけど、ドームの真上の青空の向こうには、雨雲のようなグレーのもやが見え、そこから声にならない叫び声が降ってきた(ように感じられた)。

あの独特な空気に堪えられる自信がないので、私自身は二度と原爆ドームには近づきたくないが、世界中の人々に、一度は訪れてほしい場所ではある。絶対に繰り返してはいけない“事実”がそこにあるから。

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戦争がなければ、自分が存在しなかったかもしれない。

村上春樹さんの『猫を棄てる』を読んで、いちばん衝撃を受けたことだ。これまで避けつづけてきた“事実”が、いまの私を存在させているなんて、思ってもみなかった。

いや、思いたくなかったんだろう。

過去から繋がれて、繋がれて、ここに存在していることはわかってはいるものの、悲しいできごとや失われた命の上に、自分が立っているなんて、考えたくない。つらすぎる。

でも、それも受け入れなければならない事実であり、知らなくてはいけないことなのだろうと思う。そのうえで、さらに次へと繋いでいかなければならない。背負わせていかなければならないのだ。

人間はとんでもない歴史と使命を抱えてしまったものだと思う。

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私の最も身近な戦争体験者は祖父母であるが、思い返せば、実際の体験談を聞いた記憶がない。防空壕がどうとか、配給がどうとか、断片的には聞いたような気がするが、悲惨で残忍な話は思い出したくなかったのか、子どもの私に伝えたくなかったのか、ほぼ話題になったことがないのだ。

祖父とのいちばんの思い出は、夕方に二人でよく散歩に出かけたこと。肺を患っていた祖父は、医者からも家族からも煙草を止められていたのだが、散歩の途中で必ず、ベンチに腰かけて、一本だけ煙草を吸った。そして、毎回私に「内緒やで」と言った。

内緒だと言われていたのに、一度だけ、母にそのことを告げたことがある。すると母はおかしく笑いながら「ふぅーん、そうなんや」とだけ言った。私はてっきり母が怒ると思っていたので、ビックリした。それ以来、私は祖父の煙草のことを誰にも言わなかったが、母も祖母もみんな、煙草のことを知っているふうで、幼い私にはそれが不思議だった。

祖父はとてもまじめな人だった。寡黙で、厳格で、冗談も言わないような人で、だから散歩でのできごとが祖父のイメージと一致せず、印象に残っているのだと思う。

このような日常的な思い出しかないことが、よかったのか悪かったのかはわからないが、私のからだの奥底に祖父母の意が受け継がれていることは確かだし、それがまた次の世代へと繋がっていく。

これもまた、村上さんがおっしゃっている「歴史の片隅にあるひとつの名もなき物語」であるのかなと思う。

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これから先も、きっと私は“戦争もの”が嫌いだ。
だけど、この本はときどき読み返してみようと思う。

この本は「猫を棄てる」という村上さんとお父様との思い出の話であり、私にとっても祖父母との思い出を懐かしむことのできる本だから。




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