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完璧な存在

誰がなんと言おうと、私の子供たちは完璧だ。毛深くても、片目だけ二重でも、わがままを言っても、鼻くそばっかりほじっていても、何にも替えがたい愛おしさが湧き出てくる対象であり、私の人生の中にいるだけで、その存在は完璧なのだ。

親の私にとっては完璧な存在なのに、彼らもある程度年齢が進むと、イヤでも自分の見た目や能力を他と比較して大なり小なり悩むのだろう。いったん集団生活に入ったら、他と比較しないで生きていくというのは至難の業だ。

私も思春期くらいから、そういう比較の波に飲み込まれて劣等感を抱くようになった。それは人間社会で生きるために必要な習性なのだろうけれど、それまでの私の世界は楽しい場所だったのに、だんだんそうではなくなっていった。

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ヨガ哲学のクラスで、先生がいつもお話しされる「波と海」という例えがある。

人はみな「海」であって「波」ではない。

みんな、自分を海にさざ立つ「波」だと思い込んで、数えきれない程ある自分以外の波と、自分を比べて悩んでいるけれど、それはおかしい。

なぜなら、人はみんな「波」ではなく「海そのもの」なので、他の何かと比べること自体「不可能」だから。

人は一人一人が、最初から何も欠けていない満ち足りた存在だから、そもそも比較なんてできないのに、何かと比較しようとするのは意味のないことだ。

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子供が生まれてから、不思議と、楽しかった子供時代の感覚が戻ってきて、とても穏やかな幸せを感じるようになった。

気づいたことは、私が子供に感じる愛おしさは、きっと私の親も私に感じただろうということだ。

私自身は覚えていなくても、私は昔、間違いなく親の愛情をちゃんと受け取っていて、その幸せな感覚が私の子供を通して、自分の中に呼び戻されたという感覚。

じいじ、ばあばとして、私の子供に接する両親の笑顔がきっとそれを思い出させるのかもしれない。

人はこの世に存在した時から完璧だが、それを理解するためには、幼い頃に養われる自己肯定感や幸福感がカギとなる。だから子供は認めてあげて、楽しい体験をさせてあげて、親の愛情をちゃんと伝えないといけない。

これからどんどん多感になって行く子供達が、自分がよく分からなくなった時、あなたたちはそもそもが完璧な存在で、何も不足していないんだよ、ということを思い出せるカギを持たせてあげれたらと思う。






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