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TERASIAに外部観察者として関わるとはどういうことか?

Text by 田中 里奈(興行研究者/明治大学 助教)

序に代えて

 「テラジア オンラインウィーク2021」への寄稿は打ち合わせから始まった。最初、「テラジア|隔離の時代を旅する演劇」(以下、「テラジア」と略記)というプロジェクトが、演劇研究者の視点から見てどう思われるかを文章化してみないか、と坂田ゆかりさんからお話しを頂いた。それは坂田さんからたびたび問われてきたことだったので、一度言語化するべきとは思った。だが、いま「演劇研究者の視点」で語れるほど、私はプロジェクトとの距離を十分に取ることができていない。この、距離感をつねに測りかねている状態が、逆説的に重要なのではないかと思ってもいた。幾度かの打ち合わせを経て、「TERASIAに外部観察者として関わる」とはどういうことか?という仮題ができた。内容に関する相談に快く乗ってくださった坂田さんと渡辺さんには、心から感謝申し上げる。

 「外部観察者」と書くと、監査官のようできまりが悪いのだが、このタイトルにした3つの理由を後追いで加えたい。

 まず、私は各国の『テラ』作品を実際に作っていくプロセスに関与していない。私が関わる部分は、もっぱら上演(または展示)されたあとの作品について検討する場やその企画においてである。私は各国のチームに還元できないし、本ウィークの企画・運営にも属していない。このため、便宜的に「外部」と記した。ただし、本稿で詳述するように、私は「テラジア」の内と外の両方に片足を突っ込んだ状態にい(ようと試みてい)る。

 次に、私の役割は創作に対して何らかのアドバイスを行うことではない。折に触れて、「テラジア」のメンバーに「最近どんなことがあったんですか」と尋ねて、彼らそれぞれの近況を聞くことが主な仕事(?)である。聞き役と自称するにはべらべらとうるさい自覚はあり、《井戸端で井戸端会議を待機している人》と言った方がニュアンスとして近いのだが、聞こえがいいように「観察者」としてみた。これについては、後述の「研究者が演劇に関与する」の項で説明を試みたい。それ以外に、トークイベントや研究報告で司会を担当することもあるが、そちらには本業の立場で関わる割合の方が大きいので、本稿では触れない。

 「テラジア オンラインウィーク2021」は、各国で手探りしながらこれまで進んできた創作の推移と結果をお互いに共有し、皆の現在地を確認し合うことで、未来の展望を思い描く場だ。ならば私も、自分の現在地を片隅に記させて頂きたく思った。前置きが長くなったが、これより以下、「テラジア」における私の暫定的な役割について検討してみたい。

『テラ』との出会い

 2018年に舞台芸術祭フェスティバル/トーキョーで上演された『テラ』を東京・西巣鴨の西方寺へ観に行ったきっかけは、同年春にさかのぼる。ギリシア・アテネを拠点に活動していた坂田ゆかりとドイツ・ベルリンで知り合い、『テラ』の話を聞いた。お寺での公演だと聞いて、秋も深まる11月半ばの寺は寒そうだなあと、厚着して出かけたのを覚えている(なお、お堂の中は予想を裏切って暖かかった)。

Festival_Tokyo 18 “Tera” (in Tokyo) 『テラ』(東京編) on Vimeo - Google Chrome 2021_11_22 4_04_23

 その頃、私は博士後期課程の大学院生だった。私の研究対象はオーストリア・ヴィーン発の新作ミュージカルで、それがどんな価値基準のもとで生まれ(または、既にある価値基準を刷新し)、国外に輸出され、その背景にいかなる組織構造や社会的・文化的要因があったのかを探求していた。

 『テラ』は作り手と受け手との間で、寺と劇場、仏教と演劇のあり方を、率直かつ真摯に、しかも押しつけがましくない方法で問い直していた。観客の参加という行為を作品の軸のひとつに据えると同時に、ここでの参加はあくまでも観客が個々で楽しむ行為であって、「正しい」参加が意図されていない(ように見える)という点が正直新鮮だった。観客参加型演劇こそ、「作り手がこうあってほしいと望む参加態度」が透けてみえることの多い、注意を払うべき手法であることは、河竹登志夫が「劇場と観客」(『演劇概論』)で指摘している通りだと思う。

存在意義の揺らぎ

 新型コロナウイルス感染症の拡大に端を発するさまざまな出来事は、死が日常のすぐそばにいることを私たちに思い知らせた(この点については、本テラジアウィークの他の「読みもの」や、アーティスト間でのトークをぜひご覧頂きたい)。また、演劇と劇場の存在意義も、最もラディカルな形で揺らいだ。なぜリスクを冒して劇場に足を運ぶのか。演劇を好きな人の趣味を蔑ろにしてはいけない、という理由以外に、現代日本の社会ではどんな回答が有効だろうか?

 演劇の意義について問うことは、演劇研究者の存在に疑問を呈することに他ならない。コロナ以前から「演劇を研究しています」と自己紹介をして、「その研究って社会に必要?」「作り手に何か還元できてるの?」と幾度聞かれただろうか。この種の問いにヒヤリとするのは、同期から素朴に聞かれた時よりも、終演後に作り手の方々と話した時だ。作品をきちんとわかっていなくては、気の利いた質問やコメントをしなくてはと、雑念でいっぱいになるのは私が小心ゆえなのだが。

 だが、私はずっと答えを出せずにいるのだ。

研究者が演劇に関与する

 演劇研究者が演劇にどう関わるかを考えるために、ここで観客論という横道に少しばかり逸れたい。観客の存在が上演に不可欠だとする指摘は多い。コロナ禍に無観客公演を経験した舞台俳優がそのように述べているのを見かける。

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テラジア座談会 日本」で、女優・稲継美保が「お客さんが作ってくれた場所に対して自分が語りを始める」「自分が語ると、今度はお客さんが実際には言葉を発さなくてもやっぱり何か発する」と発言している。

 演劇学で言うと、もはや国際的に共有された一言説となりつつある、ドイツ演劇学のエリカ・フィッシャー=リヒテによる上演論が思い出される。作り手と受け手の間に生ずる一回的な循環が「上演」を形作っているとする考え方だ。この場合の発言者は、作り手と受け手の外から《作り手ー受け手》の関係を概観している。

 研究者がある上演について記述する時、俳優または観客の立場で参加した自分の一回的な体験はいったん棚上げされ、ごく客観的に観察している風を装いがちだ。実際には、自分の観た回や座った座席によって、公演の内容は多かれ少なかれ違うし、どんな方法でチケットを入手したのか、観劇日の自分のコンディションはどうだったのかも、観劇体験を大きく左右する。しかも、自分の記憶はどんどん薄れていくので、視聴覚資料や劇評をベースに、自分の記憶は時折参考にするくらいにした方が安心できる。ただし、視聴覚資料や劇評が客観性において信頼できるリソースになるかどうかはケースバイケースなのだが。

 上記の考え方は、あくまでも当時の私が演劇学のオーソドックスなのではないかと思い込んでいたやり方でしかない。実際には、文化人類学の流れを汲んだパフォーマンス・スタディーズが米国で登場し、「閉じられたテクスト」としての戯曲分析を超えて、研究対象を広義の「パフォーマンス」へと拡大していった。また、日本においても、ライフヒストリー研究の観点から個々人の演劇史を綜合し、日本演劇の一部を描き出そうと試みる、日比野啓らの研究が進行中だ。

テラジア座談会 日本 TERASIA Japan Online Roundtable|TERASIA Online Week 2021 - YouTube - Google Chrome 2021_11_22 4_09_27

日本近代演劇デジタル・オーラル・ヒストリー・アーカイヴ」は、1930年代後半~70年代の演劇文化を、聞き書きによって再現しようと試みている。

 それでもなお、誤解を恐れずに敢えて言えば、現場に関わる研究者の立場は、ケチのつけようもないくらい確固たる地位を築いた先人たちや、研究者が担っても違和感の少ない立場(例えば翻訳や翻刻、監修など)での関与を除くと、いまでも微妙なままだ。制作過程のフィールドワークが研究手法としてある程度認められている一方で、「現場を知ると客観性が揺らぐ」というクリシェも完全に拭い去られていない。

 だが、どんなに上演の外から観察しようと試みても、上演を観察するのに絶対的客観性は成立しないという立場を私は取る。どんな形で居合わせていても、観察する行為は作り手に何らかの形で介入する。生の上演のみならず、配信チケットを購入するという行為ひとつを取っても、興行面には少なくとも関わっているのだ。私がそう思うようになったのは、ミュージカルが親しみやすく思わせるためのさまざまな発信の工夫を通じて、ごく個人的な思い出と結び付けられやすいジャンルであることと無関係ではない。

見えないものに目をこらす

 「作り出された作品(opus operatum)」と「作り出す方法(modus operandi)」を切り離すべきではないとしたのはピエール・ブルデューだが、後者を考えるうえで、ある団体の中で共有されている目的や価値、定着したコミュニケーション方法や振る舞いは、作り手が意識する・しないにかかわらず、創作の基礎にある。

 例として微妙かもしれないが、クラシックバレエのレッスンスタジオの多くに大きな姿見があって、バレリーナたちが絶え間なく鏡越しに自己を律していることは、舞台上で起こる出来事だけを見ていてもわからない。稽古場を見学する行為は、見学者のいない稽古と異なる環境を必然的に生み出してしまうと同時に、レッスンを新鮮に見ることのできる見学者のまなざしは、稽古場で自明視されて見えなくなっていたことを暴き出すことがある。

 「テラジア」の場合、新たな上演地やネットワークを経ることで、「テラジア」の価値や意味、動き方がつねに刷新されていくという大きな特徴がある。コロナ禍による国際的な渡航制限は、アーティストではなく作品の越境というアイデアを生み出した。『テラ』という作品の解体と再構築は、各国チームによる上演予定地の調査と自由な発想のもとで行われている。各国の仏教観も違えば、社会における寺社の役割も違う。ミャンマーチームの参戦を機に、上演される場所はもはや寺社に留まらなくなった。

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座談会 ミャンマー」(11月27日公開予定)。

 さらに、『TERA เถระ』では、単なる記録映像に留まらない方法で、対面での上演が映像化され、日本の観客にも字幕付きで配信された。作品の形態が演劇に留まらないことは、ミャンマーチームによる展覧会『Masking / Unmasking Death 死をマスクする/仮面を剥がす』(2022年5月開催予定)や、ベトナムチームによる映像作品『TERA Vietnam』(2022年8月公開予定)の進捗からも明らかだ。「テラジア」は変異し続ける作品である。

 そのように自由な展開が望めるのは、各チーム内と「テラジア」という枠組みの双方がフラットなネットワークを築いているからだろう。オリジナル作品の遵守を求めるのではなく、『テラ』の各バージョンに著作権を認める手法は、坂田ゆかりの言葉を借りれば「仲間を増やす」と形容できるかもしれない。「テラジア」コレクティヴとしてのあり方が、アーティストが渡航して現地で協働する方法ではなく、どんどん広がっていくネットワークの中でのやり取りを介して、創作の基礎となる部分をあえてアップデートし続ける流動性にあるとすれば、『テラ 京都編』が、『テラ』の再演ではなくほぼ新作として生み出されたことにも納得がいく。

おわりに

 こうして考えてみると、本稿のタイトルに据えた「外部観察者」という語は、「外からみる」というエクスキューズを含んでいる点で適切ではない(私の問いの立て方が良くなかった)。だが同時に、「テラジア」を外から客観的に観察することは不可能だと承知したうえで、そのようにあろうと心がけることは可能だし、私が取りたいのはそのような立場だ。そうすることによって、何らかの理由で曇って見えなくなっていた「テラジア」の一側面を見えるようにしたいと心から思っている。ここまでが「外部観察者」としての仕事で、それを越境的演劇とその研究が直面しているさまざまな問題とつなぎあわせて論じるためには、もっと時間が必要である。

田中 里奈/Rina Tanaka
興行研究者、批評家。明治大学国際日本学研究科博士課程修了。博士(国際日本学)。2017年度オーストリア国立音楽大学音楽社会学研究所招聘研究員。2019年、International Federation for Theatre Research, Helsinki Prize受賞。2020年より明治大学国際日本学部助教。最新の論文は「ミュージカルの変異と生存戦略―『マリー・アントワネット』の興行史をめぐって―」(『演劇学論集』71、日本演劇学会)。

関連プログラム

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トーク「クロージング:旅の目的地ーテラジアサミット2023 in インドネシアに向けて」は、2021年11月28日(日)15:00より、テラジアのYouTubeチャンネルからライブ配信します。詳細はこちらのぺージをご覧ください。


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