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金子みすゞを訪ねて。絶品うに丼との遭遇

海外で働いていた29歳に難病のSLEを悪化させ、酷いうつ状態で帰国。教員だった私は自責の念から半年以上引きこもっていた。20年以上も前のことだ。そんな私を大学時代の友人が島根への旅に誘ってくれた。もともと一人旅が好きだった私は、念願だった金子みすゞの眠る山口県長門市仙崎に友人と別れてから行くことにした。

金子みすゞへの思いもさることながら、そこで遭遇した「うに丼」が絶品だった。食欲の秋になり、おいしい思い出の1つは、このうに丼。今日は金子みすゞを訪ねた旅行記に綴った#ご当地グルメの話もお届けしたい。

山口への旅~「金子みすゞ」と「うに丼」~


 2004年のゴールデンウィークが終わり、羽田を発ってから4日目の朝を迎えた。私は、それまで旅を共にした友人と2日前に別れ、山口県東萩駅の近くの土産屋の中にいた。この日は今回の旅の佳境にあった。ここ数年来の念願であった「金子みすず記念館」を訪れることになっていたからである。
 
 金子みすずとの出会いは、10年近く前になるだろうか。あるテレビ番組の中で小学校の新米教師が彼女の詩を題材にして授業を行うところを放送していた。その題材となったのがみすずの代表作品の一つでもある「わたしと小鳥とすずと」という詩であった。

わたしが両手をひろげても
お空はちっともとべないが、
とべる小鳥はわたしのように、
地面をはやくは走れない。

わたしがからだをゆすっても、
きれいな音はでないけど、
あの鳴るすずはわたしのように
たくさんのうたは知らないよ。

すずと、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、
みんないい。

金子みすゞ「わたしと小鳥とすずと」

その番組で取りあげられていた授業は、最後の「みんなちがって、みんないい。」という部分が隠されていて、そこに入る言葉を考えよう、というものだった。

 私はこの詩を目にし、いっぺんで気に入ってしまった。「みんなちがって、みんないい。」という違いを認め合う視点に強く心揺さぶられたのだ。そしてこの視点というのは、まだ教師になる以前の私にとって教師を志す上でとても大切なものとなった。なぜならば、この違いというのはともすると、差別や排除につながるものであるからだ。特に、横並び教育が実施されてきた日本教育の中で、これを実践していくことは想像以上に大変なことであると考えていた。けれど、だからこそ大切にしていきたいといつも心のどこかに留めてきた。初めてクラス担任を持ったとき、私は青空の模様の紙の上にこの詩の言葉を載せ、学級日誌の中にそっとしのばせておいた。私にとってはこの上なく愛しい詩である。
 
 金子みすず記念館は東萩駅から南に上った長門市の仙崎にある。ゆとりを持って、駅まで送ってもらっていたので発車までにはまだ充分に時間があった。そこで土産屋で萩の焼物を物色することにした。陶器が好きな私にとって、萩焼はとても魅力的な要素を兼ね備えていた。私は店の定員さんに色々と萩焼のことについて教えていただき、様々な種類の焼物を手に取って見た。そして、一見萩焼きとは見抜けないような花器を一つ購入した。それはまだ若い女性の作品であるということだった。

 最近はなぜか女性の作品というものに心惹かれる。学生時代は圧倒的に男性の作品に接することの方は多かった。しかし、今はまったく逆になってしまっている。小説でもエッセイでも、絵画でも、音楽でも・・・・・・。特に意識してそういったものを選び取っているわけではないのに、気がつくとそれは女性の作品であることが多い。30歳を間近に迎えた一人の人間として、女という性をもった一個人として、自分の生き方というのをどこかで模索しているのかもしれない。そして、今日、私を魅了して止まない一人の女性の人生と作品に触れられるということに深い喜びを感じていた。
 
 東萩駅からは山陰本線で長門市駅に向かった。昨日と同様に天候に恵まれ、車窓から見える日本海は最高に美しかった。また、山陰地方に多い赤レンガ屋根が日本海の海のあおと山々の新緑にとてもよく映えていた。長門市に近づくにつれ、言いようのない興奮に襲われてきた。それは、みすずの詩から読み取れるのどかな港町の情景と目の前に広がる情景とがあまりにもピッタリと重なっていたからである。期待を裏切らない何かが私を待っていてくれるような気がしてならなかった。
 
 仙崎へは長門市駅からタクシーで向かった。バスに乗っていくはずであったが、うっかり乗り過ごしてしまったのだ。余裕を持って待っていたのに失敗をしてしまった。しかし、たまたま乗ったタクシーの運転手さんはとても親切な女性の方で、その日の予定を話すと色々とアドバイスをしてくださった。金子みすずの墓地までお願いしたのだが、タクシーを降りてわざわざ墓場まで案内してくださり、写真まで撮ってくださった。このみすずの墓地は一年中絶えることなく美しい花々が備えられているということだった。人のあたたかさに触れ、心弾む思いがした。
 
 墓地を出るとそこは「みすず通り」という名の通りであった。この道沿いに並んでいる家の壁にはどこもみすずの詩が掛けられていた。私はその詩の前で足をとめ、口ずさみ、そしてまた次の家まで進んでいった。町並みの様子から町内あげて金子みすずを奨励していることが伝わってきた。
 
 家の軒先でウニを殻から出しているおばあさんがいた。白い割烹着を身につけ、腰を曲げ、よいしょ、よいしょ、といった具合に仕事をしていた。おばあさんの脇にはたくさんのウニが無造作に置かれていた。港町では当たり前の光景なのだろうが、私にとっては物珍しいものであった。港町で成長するというのはどんな感じなのだろう、「大漁」の詩を見ながらふとそんなことを思った。
 
 金子みすず記念館は、みすずの墓地から仙崎駅に向かって歩いて5分もかからないところにあった。この記念館は、昨年みすずの生誕百年を記念して彼女が幼少期を過ごした金子文英堂跡地に造られた。この町並みに合った、風情ある景観を呈していた。入口を過ぎるとすぐ、書店であった「金子文英堂」が再現されていた。また、2階にはみすずの部屋も再現してあり、当時の生活の様子を垣間見ることができた。それから、本館の方へ移動し、みすずの誕生から26歳までの生涯と各時期にまつわる作品などが展示されている展示室に入った。
 
 私はここで不思議な体験をした。みすずの人生の足跡を辿っていると急に涙が溢れてきた。特に何かに感動したり、悲しくなったりしたわけではないのに・・・・・・。周囲を見渡すとその展示室には私ひとりしかいないことに気がついた。もしかしたら、どこからともなくみすずの魂がやってきて私の琴線に触れたのかもしれない。私はしばらく不可解な自分の体の反応にうまく対処できず、ただただハンカチでとめどなく零れ落ちる涙の粒を押さえていた。
 
 じっくりと美術館内を堪能したので、外に出るとすでに午後1時を回っていた。美術館の向かいのお店で軽食ができることが分かり、すぐに店に入った。薄暗い店の中には、みすずグッズやこの辺りにちなんだお土産、萩焼などが置いてあった。店を入ったすぐ右側に4人くらいが座れるテーブルと椅子があった。私は、そこの店のオリジナルウニ丼を注文した。ちょっと店内を見まわった後、席につき、友人に手紙を認めていた。その店内には、60代前後のご夫婦もいらっしゃった。2人で店内を眺めていた。しばらくすると、彼らもここで食事をすることが分った。ウニ丼が3皿やってきたからだ。私たちはひとつのテーブルに座り、ウニ丼を食べ始めた。

 この店のウニ丼は絶品だった。こんなに美味しいウニを口にしたことはなかった。祖父母のお陰で手作りの米や野菜を生まれたときから食べて育ったこともあり、土から取れた新鮮な食べ物の美味しさというのはよく分かっていた。しかし、海の幸というとなかなか出会うチャンスがなかったように思う。とにかく、美味しいのだ。口の中に入れると、すぐにとろけ、その甘みがじわーっと中で広がっていくのである。みすず通りで目にしたウニとおばあさんを想った。この辺りの人はこんなにも美味しいものを毎日口にしているのか、と思うとうらやましくてならなかった。
 
 目の前のご夫妻も、「さすがに美味しいね」といった会話をしていた。心の中でうなずいていると、ご婦人の方が私に声を掛けてくださった。「一人旅ですか? 」といった感じで話しかれられたように記憶している。お互いに簡単な自己紹介をした後、実はここのオリジナルのウニ丼がある雑誌に載っていてわざわざ食べに来たということを話してくれた。彼らは福岡に住んでいるのだが、ご主人の方のご実家が山口県にあり、そこに来たついでにウニ丼を食べに仙崎まで足を伸ばしたというのである。このオリジナルメニューは一日限定15品であり、昨日までであったらゴールデンウィーク中でこの時間ではとてもありつけることはできなかったことを知った。これは思いもかけない幸運で驚いた。

 昨日お話した喫茶店のオーナーと同様、彼らにも私と同年代のお子さんがいらっしゃるという。そんなことで親近感が沸いたようだった。親にとって子どもというのはいくつになっても子どもなのだろう。そして、親としてはその子どもの存在が気になって仕方がないのだ。だから、きっと、同じくらいの年頃の娘をみると、他人様には見えなくなってしまうに違いない。両親にはいろいろと心配や迷惑ばかりをかけてきた。私が難病になったことでどれほど苦しませてしまったかを考えると胸が痛む。我儘な娘に翻弄され続けた30年だったに違いない。苦労したにもかかわらず、ニ人で旅行をしたことは数えるくらいしかないことに気がついた。感謝しなくてはならない、と強く思った。

 私たちは、旅行のことや文学のことでいろいろと話が盛り上がった。ウニ丼に舌鼓を打ち、話に花を咲かせたが、いよいよお別れのときがきてしまった。お勘定をすませようとお財布を出すと、ここはいいから、とご主人が私の分までお金を出してくださった。申し訳なさと、嬉しさでどうしていいか分からなかったのだが、お言葉に甘えさせていただくことにした。ここで、私は、お腹だけでなく、心満たされる経験をしたのだった。後日、このご夫婦にはお礼の手紙と、一緒に撮った写真をそえて送った。またいつかお会いしたいという祈りを込めて。

 私は、ご夫妻とお別れをした後、仙崎駅を通って日本海を目指した。そして、ぎらぎらと太陽が照りつける下を歩きながら、ふと、「生きていてよかった」と思ったのだった。みすずはたくさんのすばらしい詩を残したが、26歳という若さで自らの命を絶った。わが子を守るために・・・・・・。彼女の人生は決して幸福に包まれたものであったとはいえない。父の死、母の再婚、兄の結婚、実の弟とのほのかな恋、政略結婚、そして夫から移された梅毒にも苦しめられた。そんな中にあっても彼女は詩を作り続けた。もしかしたらその逆境を詩という表現を通して昇華させていたのかもしれない。少女のような心とあたたかい眼差しでつくりだされた、広く深い世界。その世界との関係を厳しく制限されたとき、どんなに深い悲しみの中にあったか。それは、想像を絶するものだと思わずにはいられない。私も、難病になり、失恋を経験し、仕事も辞め、絶望を味わった。死をも考えるほど苦しみぬいた日々が続いた。しかし、今、私は、生かされている。だから、彼女の分まで生きようと強く思った。
                           (2004年6月)

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